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公家幕末・明治

岩倉具視

いわくらともみ

1825 〜 1883

公家「岩倉具視」(幕末・明治)

別名・通称

周丸(幼名)、対岳(号)、友山(蟄居中の法名)

幕末から明治の公家・政治家(1825〜1883)。京都の公家、堀河康親(ほりかわやすちか)の次男に生まれ、のちに岩倉家の養子になりました。公武合体(こうぶがったい)を唱えて和宮(かずのみや)の降嫁に賛成しましたが、文久2年(1862)に辞官して蟄居(ちっきょ)し、約5年間を洛北の岩倉村で過ごしました。のちに薩摩の大久保利通らと結んで、慶応3年(1867)の王政復古に加わります。明治4年(1871)に右大臣となり、特命全権大使として岩倉使節団を率いて欧米12か国を回りました。五百円札の肖像にもなりました。
生涯・逸話
岩倉具視は、京都の公家として生まれ、5年にわたる蟄居(ちっきょ・外出や人との面会を禁じられた謹慎)をはさんで、幕末から明治の政治の中心に立った人物です。 【生い立ち】 文政8年9月15日(西暦1825年10月26日)、京都で、堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として生まれました。幼名は周丸(かねまる)といいます。 天保9年(1838)に、岩倉具慶(いわくらともよし)の養子になり、岩倉家を継ぎました。号は対岳(たいがく)です。 【公武合体と和宮降嫁】 幕末の岩倉は、朝廷と幕府が協力して政治を進める公武合体(こうぶがったい)の考え方に立ちました。 万延元年(1860)、幕府の老中たちは、孝明天皇(こうめいてんのう)の妹にあたる和宮(かずのみや)を将軍家に迎えたいと願い出ました。岩倉は天皇に意見書を出し、条約を破棄することを条件に、この降嫁(こうか・皇族の女性が臣下の家に嫁ぐこと)に賛成する立場をとります。 文久元年(1861)10月には、和宮が江戸へ向かう旅に随行しました。 【蟄居と岩倉村での暮らし】 ところが、攘夷(じょうい・外国勢力を追い払おうとする考え)を唱える勢力が強まると、岩倉は幕府に近いと見られ、立場が悪くなります。 文久2年(1862)8月16日、三条実美(さんじょうさねとみ)ら13人の公家が、岩倉ら6人を「四奸二嬪(しかんにひん)」と名指しして非難しました。同月20日、岩倉は蟄居を命じられ、官職を辞して出家します。 同年10月、京都の北にある岩倉村(いわくらむら)に移りました。ここでの暮らしは、慶応3年(1867)11月に京都の市中へ戻ることが許されるまで、約5年間続きます。この間に、坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らがここを訪ねたと伝わります。 【王政復古】 蟄居の間に岩倉は、薩摩藩(さつまはん)などの討幕派と近い関係になっていきました。 慶応3年(1867)12月9日、王政復古の大号令が出されます。岩倉は当時、参与(さんよ)の立場で、新政府の人事や徳川慶喜(とくがわよしのぶ)への処分を求める案を、天皇に差し出す動きに加わりました。この日、有栖川宮(ありすがわのみや)が総裁、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)や山内容堂(やまうちようどう)が議定(ぎじょう)、岩倉や大久保利通が参与という新政府の体制がつくられました。 このあとの小御所会議(こごしょかいぎ)では、岩倉は大久保とともに春嶽や容堂と激しく議論し、慶喜に官職の辞退と領地の返上を命じることが決まりました。12月28日には議定に進みます。 【明治政府での歩み】 明治になると、岩倉は副総裁、大納言(だいなごん)などをつとめました。明治4年(1871)7月、三条実美が太政大臣(だじょうだいじん)となったのにあわせて、右大臣になります。 明治6年(1873)の征韓論(せいかんろん)では、大久保利通とともに、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが求めた朝鮮への使者派遣に反対しました。使者の派遣は取りやめとなり、西郷は政府の職を辞して鹿児島へ帰ります。 【岩倉使節団】 明治4年11月12日(西暦1871年12月23日)、岩倉は特命全権大使(とくめいぜんけんたいし)として、横浜港から欧米へ出発しました。 副使は木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通、伊藤博文(いとうひろぶみ)です。使節団は総勢107人で、その中には留学生43人もふくまれていました。アメリカ、イギリス、フランスなど12か国をめぐり、各国の政治や産業、学校などを見て回りました。 目的は、友好と視察のほか、不平等条約の改正について探る予備交渉でもありました。しかし条約改正は実現せず、使節団は明治6年(1873)9月13日に横浜へ戻ります。 【晩年と最期】 明治7年(1874)1月14日の夜、岩倉は赤坂の仮皇居から帰る途中で、高知県出身の士族に襲われ、けがをしました。喰違(くいちがい)の変と呼ばれる事件ですが、命に別状はありませんでした。 明治14年(1881)には、井上毅(いのうえこわし)の意見を聞いて憲法をつくる必要を認め、その仕事を伊藤博文に任せました。 明治16年(1883)、咽頭癌(いんとうがん)が重くなり、京都で診察を受けたのち、船で東京へ戻りました。明治天皇の見舞いを受けた翌日の7月20日に亡くなり、享年は59(数え年)です。同月25日に国葬が行われました。のちに正一位(しょういちい)と太政大臣が贈られています。墓は東京都品川区の海晏寺(かいあんじ)にあります。 【人物への評価】 岩倉への評価は一つではありません。勝海舟や伊藤博文は、その聡明さや決断力を高く評価しました。 一方で、幕末には尊攘派から幕府寄りと見られて非難されました。孝明天皇の死をめぐって毒殺説が語られ、岩倉が疑われたこともありますが、真偽は不明とされ、毒殺を否定する見方が通説とされています。 【旧宅と五百円札】 京都市左京区の岩倉には、岩倉村で暮らした家の跡、岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)があり、昭和7年(1932)に国の史跡に指定されました。質素な平屋の建物が残り、遺品を収めた対岳文庫(たいがくぶんこ)には、重要文化財に指定された資料もあります。 平成25年(2013)に京都市へ寄贈され、同年5月31日から再び公開されています。 岩倉の肖像は、昭和26年(1951)から平成6年(1994)まで、五百円札に使われました。
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