武将幕末・明治
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
1837 〜 1913

別名・通称
慶喜、徳川一橋慶喜、江戸幕府最後の将軍、大政奉還
生涯・逸話
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府の最後の将軍です。政権を朝廷に返す大政奉還(たいせいほうかん)を行い、家康以来264年にわたって続いた幕府の政治に幕を引きました。ただ、政権を返したあとも新しい体制で主導権を保つ考えがあったとする辞典が多く、その真意をめぐっては、いまも見方が分かれます。
【生い立ち】
天保8年(1837)9月29日、水戸藩(みとはん)主の徳川斉昭(なりあき)の七男として、江戸の小石川(こいしかわ)にあった水戸藩の屋敷で生まれました。弘化4年(1847)に一橋家(ひとつばしけ)を継ぎ、文久2年(1862)には将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)に就きました。慶応2年(1866)12月、15代将軍になりました。
【大政奉還】
慶応3年(1867)10月13日、慶喜は京都の二条城(にじょうじょう)に、在京の10万石以上の大名の重臣を集めて、意見を聞きました。翌14日に政権を朝廷に返す上表(じょうひょう)を出し、15日に朝廷に受け入れられました。
この前に、土佐藩の前藩主の山内容堂(やまうちようどう)が、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの動きを受けて、政権を返すよう勧める建白書を出しています。この建白は、坂本龍馬の「船中八策(せんちゅうはっさく)」の発想に基づくとされます。
ところが、同じ年の12月9日には、薩摩藩や長州藩を中心とした新政府側が、王政復古(おうせいふっこ)の大号令を出しました。慶喜の構想は、その後の戊辰戦争(ぼしんせんそう)へと進む流れの中で、実現しませんでした。
【戊辰戦争のころ】
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦いに敗れたのち、海路で江戸へ戻りました。上野の寛永寺(かんえいじ)に移って謹慎(きんしん)し、新政府に恭順(きょうじゅん)する姿勢を示しました。江戸城は、戦わずに新政府に明け渡されました。江戸開城のあと、水戸で謹慎し、のち駿府(すんぷ、静岡)に移りました。
【その後】
静岡で、およそ30年間を静かに過ごしたとされます。明治30年(1897)に東京へ戻り、明治35年(1902)には公爵(こうしゃく)になりました。貴族院議員(きぞくいんぎいん)にもなったといいます。
大正2年(1913)11月22日、東京の自宅(いまの文京区春日)で亡くなりました。死因は急性肺炎と伝わります。享年は、数え年で77歳、満で76歳です。墓は、谷中霊園(やなかれいえん)にあります。
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