武将幕末・明治
後藤象二郎
ごとうしょうじろう
1838 〜 1897

別名・通称
象二郎、保弥太
生涯・逸話
後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、幕末から明治にかけて活躍した土佐藩(とさはん)出身の政治家である。大政奉還(たいせいほうかん)の実現に動いた人物として知られ、明治になると自由民権運動にも関わった。
【生まれと土佐藩での出世】
天保9年(1838)3月19日、土佐藩士・後藤助右衛門(ごとうすけえもん)の子として、高知城下(現在の高知市与力町)に生まれた。家柄は馬廻(うままわり)である。叔父の吉田東洋(よしだとうよう)が藩の参政(さんせい)になると、その推挙で取り立てられ、郡奉行(こおりぶぎょう)や御近習目付(ごきんじゅうめつけ)を務めた。東洋が暗殺されたあとは不遇の時期が続いたが、元治元年(1864)に大監察(おおめつけ)、慶応元年(1865)に参政となり、軍艦奉行や開成館奉行(かいせいかんぶぎょう)も務めた。藩主の山内容堂(やまうちようどう)の意向を受けて、藩内の土佐勤王党(とさきんのうとう)をおさえる立場にもあった。
【大政奉還】
慶応3年(1867)、脱藩していた坂本龍馬と手を組み、龍馬の「船中八策(せんちゅうはっさく)」の考えを取り入れて、容堂に大政奉還を進めたとされる。この年には薩摩藩と薩土盟約(さつどめいやく)も結んでいる。10月3日、後藤は容堂の名で大政奉還建白書を作り、老中の板倉勝静(いたくらかつきよ)を通じて将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に提出した。慶喜は10月14日に政権を朝廷に返す上表を出し、翌15日に朝廷がこれを認めた。
【明治政府と自由民権運動】
明治維新後は、参与、外国事務掛、大阪府知事、工部大輔(こうぶたいふ)、左院議長(さいんぎちょう)などを歴任し、明治6年(1873)に参議となった。同じ年、征韓論(せいかんろん)をめぐる政変で、征韓派として辞職し、政府を去った。翌明治7年(1874)には、板垣退助(いたがきたいすけ)らと愛国公党(あいこくこうとう)をつくり、民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)の提出に加わった。明治14年(1881)には自由党の結成に参加し、翌年には板垣とともに外国へ渡った。
【大同団結運動と晩年】
明治19年(1886)から翌年ごろにかけて、条約改正に反対する動きが高まると、大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)を呼びかけて進めた。明治22年(1889)に運動を離れ、黒田清隆(くろだきよたか)内閣の逓信大臣(ていしんだいじん)となった。のちに農商務大臣も務めたが、明治27年(1894)に辞めた。明治30年(1897)8月4日、東京で病没した。
【ゆかりの地】
高知市与力町に、後藤象二郎誕生地碑が立っている。