武将幕末・明治
勝海舟
かつかいしゅう
1823 〜 1899

別名・通称
海舟、勝麟太郎、勝義邦、勝安芳
幕末から明治にかけて活躍した幕臣(江戸幕府の家臣)。江戸の本所に生まれ、蘭学(オランダ語を通して学ぶ西洋の学問)を学んで長崎海軍伝習所に入り、万延元年(1860)には咸臨丸で太平洋を渡った。慶応4年(1868)3月には西郷隆盛と会談し、江戸城の明け渡しにかかわった。明治になってからは参議兼海軍卿などを務め、旧幕臣の援助も続けた。咸臨丸での役職や江戸開城での役割の評価は、資料によって違いがある。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】
勝海舟(かつ かいしゅう)は、幕府の家臣として長崎や咸臨丸(かんりんまる)で海軍の経験を積み、幕府の終わりには西郷隆盛(さいごう たかもり)と話し合って江戸城の明け渡しにかかわり、明治になってからも旧幕臣(きゅうばくしん、もと幕府の家臣)の援助を続けた人物です。海舟は号(ごう、本名とは別につける呼び名)で、本名は義邦(よしくに)、のちに安芳(やすよし)と改めました。幼いころの名・通称は麟太郎(りんたろう)です。海舟という号は、佐久間象山(さくま しょうざん)直筆の「海舟書屋」(かいしゅうしょおく)という文字に由来するとされますが、その号をもともと誰が用いたのかははっきりしません。
【生まれと家】
文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸の本所亀沢町(ほんじょかめざわちょう)で生まれました。父の勝小吉(かつ こきち)は旗本(はたもと、将軍に直接つかえる家臣)で、小普請組(こぶしんぐみ)に属し、41石の家柄とされます。海舟が生まれたのは、小吉の実家である男谷家(おたにけ)でした。
【蘭学から海軍へ】
若いころは永井青崖(ながい せいがい)に蘭学(らんがく、オランダ語を通して学ぶ西洋の学問)を学び、のちに赤坂田町に私塾を開きました。安政2年(1855)には、幕府が長崎に開いた海軍伝習所(かいぐんでんしゅうしょ、オランダ人から海軍の技術を学ぶ学校)に伝習生として入りました。オランダ語ができたため、オランダ人教官との連絡役や、教える側の教監(きょうかん)も兼ねたとされます。伝習所での成績については落第したとする説もあり、見方が分かれています。
【咸臨丸で太平洋を渡る】
万延元年(1860)、幕府の船・咸臨丸が太平洋を渡ってアメリカへ向かい、海舟も乗り組みました。海舟の正式な役職は軍艦操練教授方頭取(ぐんかんそうれんきょうじゅかたとうどり)で、外国に対しては「艦長」と説明されたとされます。コトバンクなどの辞典類は「艦長」と書きますが、Wikipediaは「艦長という役職は実際にはなかった」としており、資料によって書き方が違います。責任者は、軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)で遣米使節団の副使も務めた木村喜毅(きむら よしたけ)で、ジョン万次郎(中浜万次郎、なかはま まんじろう)が通訳を務めました。アメリカ海軍のブルック大尉ら11名も浦賀から乗り込み、往きの航海は実質的にアメリカ人が船を動かす形になったと説明されています。帰りはアメリカ人水夫5人を雇ったほかは日本人だけで運航し、ハワイを経由して戻りました。
【軍艦奉行並と神戸の海軍操練所】
文久2年(1862)閏8月に軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ)となりました。坂本龍馬(さかもと りょうま)との関係では、海舟の日記に龍馬の名が出てくるのは文久2年の年末のものが最初で、それ以前の交流ははっきりしません。その後、神戸に海軍操練所(そうれんじょ)と私塾の神戸塾を開きましたが、元治元年(1864)11月10日に軍艦奉行を免じられ、約2年間、蟄居(ちっきょ、自宅で謹慎すること)しました。
【江戸城の明け渡し】
慶応4年(1868)3月、新政府軍が江戸に迫るなか、海舟と西郷隆盛は3月13日と14日に会談しました。場所は薩摩藩(さつまはん)の江戸藩邸で、13日は高輪(たかなわ)、14日は田町(たまち)の藩邸だったとする説明があります。海舟の日記には「高輪薩州之藩邸」と書かれているため、高輪とする説もあります。田町の会談地には、港区芝に記念碑が建っています。会談の前には、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の使者となった山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)が駿府(すんぷ)で西郷と会っており、海舟は西郷あての書を山岡に渡したとされます。江戸城は同年4月11日に明け渡され、慶喜は死罪を免れて水戸で謹慎することになりました。
海舟は後に、江戸に火をつけて新政府軍を迎え撃つ計画(焦土作戦)を準備していたと語っています。ただし、海舟には大げさに話す癖があったともされ、この話が本当かどうかは分かっていません。また、「無血開城」と呼ばれますが、4月11日のあとも、5月15日の上野戦争など戦いは続きました。「無血」は、江戸城と江戸の町が戦火を受けなかったという意味で使われているとみられます。福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『瘠我慢の説』(やせがまんのせつ)で、海舟の身の処し方を批判しました。
【明治になってから】
明治政府では、外務大丞(がいむだいじょう)、兵部大丞(ひょうぶだいじょう)、参議兼海軍卿(さんぎけんかいぐんきょう)、元老院議官(げんろういんぎかん)、枢密顧問官(すうみつこもんかん)などを務め、伯爵(はくしゃく)に叙せられました。ただし、官職につくことには消極的で、辞任や辞退も多かったとされます。政府の依頼で『海軍歴史』『陸軍歴史』『開国起源』などの編さんにもたずさわりました。また、旧幕臣の生活を助けるため資金を援助し、旧幕臣を援助する酬恩義会(しゅうおんぎかい)や、日光東照宮の保存をめざす保晃会(ほこうかい)を設立しました。
【晩年と墓所】
明治32年(1899)1月19日、入浴のあとに倒れ、脳溢血(のういっけつ)で亡くなりました。満75歳(数え年で77)です。没日を1月21日とする資料もあります。墓所は、東京都大田区の洗足池(せんぞくいけ)のほとりにあります。