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武将幕末・明治

西郷隆盛

さいごうたかもり

1828 〜 1877

武将「西郷隆盛」(幕末・明治)

別名・通称

隆盛、隆永、西郷吉之助、南洲翁、西郷南洲

幕末から明治時代初めの、薩摩藩出身の武士・軍人・政治家(1828〜1877年)。維新の三傑のひとりに数えられ、戊辰戦争では新政府軍の参謀として、勝海舟との会談で江戸城の無血開城を実現しました。明治政府では参議を務めましたが、1873年に下野し、1877年、西南戦争で士族たちに擁立されて敗れ、城山で自刃しました。号は南洲です。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、薩摩の下級藩士から出て新しい国づくりを進めながら、やがて明治政府と袂を分かち、最期は反乱軍の中心となった、その転換にあります。 【生い立ち】 旧暦の文政10年12月7日、西暦では1828年1月23日(資料によっては1827年とも書かれます)、薩摩国(さつまのくに)鹿児島城下の加治屋町(かじやちょう、現在の鹿児島市)で、薩摩藩士・西郷吉兵衛(さいごうきちべえ)の長男として生まれました。下級の藩士の家でした。通称は吉之助(きちのすけ)、名は隆永(たかなが)、のちに隆盛、号は南洲(なんしゅう)です。 【島津斉彬と島流し】 藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)に見いだされて側近となり、1854年(安政元年)には庭方役に抜擢されました。1858年(安政5年)、斉彬が急に亡くなり、安政の大獄(あんせいのたいごく)で幕府の追及が強まるなか、西郷は窮地に立たされ、11月に僧の月照(げっしょう)と鹿児島湾に身を投げましたが、西郷だけが助かりました。その後、奄美大島(あまみおおしま)に流され、のちに島津久光(しまづひさみつ)との対立から、徳之島(とくのしま)、沖永良部島(おきのえらぶじま)へ流されました(1862年ごろ)。 【倒幕へ】 1866年(慶応2年)には、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)と薩長同盟(さっちょうどうめい)を結びました。1867年(慶応3年)12月に王政復古(おうせいふっこ)が行われ、新政府が発足します。戊辰戦争(ぼしんせんそう)では、東征大総督府(とうせいだいそうとくふ)の参謀として、新政府軍の指揮に加わりました。 【江戸無血開城】 1868年(慶応4年)3月13日と14日、旧幕府側の勝海舟(かつかいしゅう)と会談しました。江戸城総攻撃の予定日は3月15日でしたが、会談の結果、総攻撃は中止され、江戸城は戦わずに明け渡されることになりました。これを江戸無血開城といいます。会談の場所は、高輪の薩摩藩下屋敷や田町の薩摩藩邸とされ、諸説あります。東京都港区の田町駅の近くには、会見の地を示す碑があります。 【新政府での活躍と下野】 1871年(明治4年)に参議(さんぎ)となり、廃藩置県(はいはんちけん)では中心的な役割を果たしました。1873年(明治6年)、朝鮮への使節派遣をめぐる政変で、西郷は職を辞して鹿児島に帰り(下野、げや)、私学校(しがっこう)を作りました。この政変は、一般に「征韓論(せいかんろん)に敗れたため」と説明されますが、西郷は武力ではなく話し合いによる交渉を求めて、使節を志願したとする見方もあります。 【西南戦争と最期】 1877年(明治10年)、私学校の士族たちが政府への不満から兵を挙げ、西郷は心ならずも擁立されて、西南戦争(せいなんせんそう)が起こりました。背景には、徴兵制や廃刀令に対する旧士族の反発があったとされます。西郷軍は敗れ、鹿児島の城山(しろやま)にたてこもりました。9月24日未明、政府軍の総攻撃を受け、西郷は別府晋介(べっぷしんすけ)の介錯(かいしゃく)で自刃したといわれます。満49歳でした(数え年では51歳)。西郷が最期の数日を過ごした洞窟は西郷洞窟と呼ばれ、近くの鹿児島市城山町には「南洲翁終焉之地」の碑が立っています。 【没後】 鹿児島市上竜尾町の南洲墓地(なんしゅうぼち)には、西郷の墓と、西南戦争で亡くなった薩軍の兵士たちの墓があります。西郷は一時「逆賊(ぎゃくぞく)」とされましたが、のちに罪を許され、正三位(しょうさんみ)が追贈されました。1898年(明治31年)12月18日には、東京の上野公園で銅像の除幕式が行われました。高村光雲(たかむらこううん)の作で、犬を連れた姿をしています。毎年9月24日は、命日にあたる「南洲忌(なんしゅうき)」と呼ばれます。 【敬天愛人】 「敬天愛人(けいてんあいじん)」は、「天を敬い、人を愛する」という意味の言葉で、西郷が座右の銘としたとされています。西郷の言葉をまとめた『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』には、「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」という言葉が引かれています。