武将幕末・明治
山県有朋
やまがたありとも
1838 〜 1922

別名・通称
山縣有朋、辰之助、小助、狂介、含雪
幕末から大正にかけての政治家・軍人(1838〜1922)。長州藩の下級武士の家に生まれ、奇兵隊の軍監を務めた。明治政府では徴兵制の整備や参謀本部の設置など陸軍の仕組みづくりを進め、内閣総理大臣を2度務めた。
生涯・逸話
山県有朋(やまがたありとも)は、長州(ちょうしゅう、山口県)の下級武士の家に生まれ、のちに元帥(げんすい)・公爵(こうしゃく)にまで昇りつめた人物です。
明治政府では、徴兵制の整備や参謀本部の設置など、陸軍の仕組みをつくる中心にいました。
内閣総理大臣も2度務め、晩年まで政界に大きな影響力を持ちました。
【生い立ち】
天保9年(1838)、長州藩の萩(はぎ)城下の近く、阿武郡川島村(あぶぐんかわしまむら、現在の萩市川島)に生まれました。
家は、藩の蔵元仲間組(くらもとなかまぐみ)という下級武士の家でした。
幼名は辰之助(たつのすけ)、通称は小助(こすけ)です。
のちに狂介(きょうすけ)と名乗り、明治4年(1871)ごろから「有朋」の名を使うようになりました。
【松下村塾と奇兵隊】
安政5年(1858)の10月に藩へ戻ると、久坂玄瑞(くさかげんずい)の紹介で、吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に入りました。
入塾を一度ためらったという話もありますが、有朋は生涯、自分を「松陰先生の門下生」と称しました。
文久3年(1863)12月、高杉晋作(たかすぎしんさく)が作った奇兵隊(きへいたい)で、軍監(ぐんかん、軍の副官にあたる役)となり、壇ノ浦(だんのうら)の支営も任されました。
元治2年(1865)1月、総管の赤禰武人(あかねたけと)が隊から離れたあとは、事実上、奇兵隊を率いるようになります。
【戊辰戦争と欧州視察】
戊辰戦争(ぼしんせんそう)では、黒田清隆(くろだきよたか)とともに、北陸道鎮撫総督(ほくりくどうちんぶそうとく)の参謀を務めました。
北越戦争(ほくえつせんそう)では、友人の時山直八(ときやまなおはち)が朝日山の戦いで戦死しました。
有朋は、会津藩が降伏する場にも立ち会っています。
明治2年(1869)6月、西郷従道(さいごうつぐみち)とともにヨーロッパへ渡り、フランス、イギリス、ドイツなどを見て回りました。
帰国は明治3年(1870)8月です。
【陸軍の整備】
有朋は、大村益次郎(おおむらますじろう)や西郷従道らと同じく、早くから「国民皆兵」を唱えていました。
国民皆兵とは、身分に関係なく、国民から兵を集める考え方です。
明治3年(1870)には、有朋の構想にもとづいて徴兵規則が定められました。
明治5年(1872)11月に徴兵告諭(ちょうへいこくゆ)が出され、明治6年(1873)1月には徴兵令(ちょうへいれい)が出されました。
同じ明治6年に陸軍省ができると、有朋は陸軍卿(りくぐんきょう)に就きました。
明治11年(1878)12月、参謀本部(さんぼうほんぶ)が置かれ、有朋は初代の参謀本部長になりました。
明治15年(1882)1月には、軍人としての心得を示す軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の起案と頒布(はんぷ)にあたりました。
【内閣総理大臣】
明治22年(1889)12月、第3代の内閣総理大臣になりました(第1次山県内閣)。
翌年には教育勅語(きょういくちょくご)が発布され、明治24年(1891)5月に辞任します。
明治31年(1898)11月には、第9代として再び内閣を組織しました(第2次山県内閣)。
この内閣では、軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)や治安警察法(ちあんけいさつほう)などが定められました。
【戦争と元老】
日清戦争では、第一軍司令官として出征しましたが、体調をくずして明治27年(1894)12月に帰国しました。
日露戦争では参謀総長を務め、その功績で、明治40年(1907)に公爵になりました。
明治42年(1909)に伊藤博文(いとうひろぶみ)が亡くなると、元老(げんろう、天皇を助ける政界の長老)の中で最も有力な人物となりました。
大正時代に政党政治の力が強まると、その影響力は弱まったとされます。
【評価】
有朋は、辞典などで、藩閥(はんばつ)・軍閥(ぐんばつ)の中心人物として、政党の勢力を抑えた人だと説明されます。
一方で、徴兵制や、市制・町村制、府県制・郡制といった地方の制度など、近代国家の仕組みづくりを進めた人でもあります。
どう評価するかは、立場によって分かれています。
【最期】
大正11年(1922)2月1日、小田原の別邸で亡くなったとされます。数え年で85歳(満83歳)でした。
国葬が行われ、東京都文京区の護国寺(ごこくじ)に葬られました。
【ゆかりの地】
山口県萩市川島に、山縣有朋誕生地があります。
石碑が建つ、簡素な記念の場所です。
東京都文京区の護国寺の墓地には、有朋の墓があります。
京都の無鄰菴(むりんあん)は、有朋が七代目小川治兵衛(おがわじへえ)に依頼して築かせた名庭です。
東京の椿山荘(ちんざんそう)は、有朋が明治11年(1878)に築いた私邸の跡です。
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