武将幕末
久坂玄瑞
くさかげんずい
1840 〜 1864

別名・通称
玄瑞、久坂義助、久坂通武
生涯・逸話
25歳(数え年)で自ら命を絶つまで、攘夷(じょうい)の最前線を走りつづけた長州(ちょうしゅう)の若者です。
【萩に生まれて】
天保11年(1840)、長州藩の城下町・萩(はぎ、山口県萩市)に、藩医の久坂良迪(くさかりょうてき)の子として生まれました。藩医の久坂家を継ぎ、名は通武、通称は義助(ぎすけ)といいます。
【松陰のもとで】
吉田松陰(よしだしょういん)の門下となり、松下村塾で学びました。松陰の補佐役も務め、高杉晋作(たかすぎしんさく)と並んで、松下村塾の「双璧(そうへき)」とよばれます。松陰からは「防長年少第一流」の人物と評されたと伝わります。
18歳(数え年)のとき、松陰の妹・文と結婚しました。文は、のちに楫取美和子(かとりみわこ)と名乗ります。
【攘夷の先頭に】
久坂は、長州藩の尊王攘夷運動の先頭に立ちました。朝廷と幕府の協調をめざす公武合体(こうぶがったい)を進めていた藩の方針を、尊王攘夷へと変える動きに加わったとされます。
江戸では、品川にあった英国公使館の焼き討ちに加わりました。下関では、外国の船への砲撃にも加わっています。
【禁門の変】
京都での勢力を取り戻そうとして兵を進めた長州藩は、元治元年(1864)、京都で幕府方と戦います。これを禁門の変(蛤御門の変〈はまぐりごもんのへん〉)といいます。
久坂は、はじめ兵を進めることに慎重だったとされますが、藩の方針が上洛(じょうらく)に傾くと、これに従いました。7月19日の戦いで負傷し、朝廷への嘆願を求めて入った鷹司邸で自刃しました。享年は数え年で25です。
【ゆかりの地】
久坂が生まれた家の跡は、萩市平安古町にあり、今は石碑が残っています。