TabiShiri
葛飾八幡宮へ戻る
武将幕末

大村益次郎

おおむらますじろう

1824 〜 1869

武将「大村益次郎」(幕末)

別名・通称

村田蔵六(改名前の名)、良庵(通称)、永敏(諱)

幕末から明治初めの長州藩士・蘭学者・軍事指導者(1824年または1825年〜1869)。周防国(すおうのくに・今の山口県)の村医の長男に生まれ、緒方洪庵の適塾で蘭学と医学を学びました。宇和島藩や幕府に仕えたのち長州藩士となり、第二次長州征伐では石州口(せきしゅうぐち)の戦いを指揮します。戊辰戦争では上野戦争で彰義隊を約1日で鎮めました。明治2年(1869)に兵部大輔となりましたが、京都で襲われて重傷を負い、同年11月5日(旧暦)に大阪で亡くなりました。
生涯・逸話
大村益次郎は、村の医者の子から蘭学者となり、のちに軍の指揮と制度づくりで、幕末から明治の初めを動かした人物です。 【生い立ち】 周防国吉敷郡鋳銭司村(すおうのくによしきぐんすぜんじむら・今の山口市)で、村医(村の医者)の村田孝益(むらたこうえき)と妻うめの長男として生まれました。生まれた年は、文政7年(1824)とする資料と、文政8年(1825)とする資料があります。 幼いころの名は宗太郎で、惣太郎とする資料もあります。通称は蔵六、良庵といい、のちに村田蔵六と名乗りました。 【蘭学を学ぶ】 弘化3年(1846)、緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた大坂の適塾(てきじゅく)に入り、嘉永2年(1849)には塾頭(じゅくとう・塾生のまとめ役)になりました。嘉永3年(1850)に故郷へ帰り、村医として医者を開きます。 【宇和島藩と幕府】 嘉永7年(1854)、伊予国(いよのくに)の宇和島藩(うわじまはん)に仕え、西洋の兵学書の翻訳と、蘭学の教授を受け持ちました。 安政3年(1856)には幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授方手伝(きょうじゅかたてつだい)、翌年には講武所(こうぶしょ)の教授になりました。 【長州藩での活躍】 万延元年(1860)、長州藩士になります。慶応元年(1865)12月、村田蔵六から大村益次郎に名を改めました。 慶応2年(1866)の第二次長州征伐では、石見(いわみ)方面の石州口(せきしゅうぐち)で戦いを指揮し、7月18日(旧暦)に浜田城(はまだじょう)を落としました。 【上野戦争】 慶応4年(1868)、東征大総督府(とうせいだいそうとくふ)の補佐として江戸に入り、5月15日(旧暦・西暦では7月4日)の上野戦争を指揮しました。彰義隊(しょうぎたい)は、約1日で鎮められました。 【兵部大輔として】 明治2年(1869)7月8日(旧暦)、兵部大輔(ひょうぶのたいふ)になりました。藩の兵に頼らず、政府に直属する軍をつくることを目指し、徴兵や鎮台(ちんだい)の設置、兵学校で軍人を育てることなどを考えていました。 大久保利通(おおくぼとしみち)らとの議論で、この考えは退けられました。徴兵令が出されたのは、益次郎の死後の明治6年(1873)のことです。 【襲撃と最期】 明治2年9月4日(旧暦)の夕方、京都の三条木屋町(さんじょうきやまち)の旅館で、団伸二郎(だんしんじろう)、神代直人(くましろなおと)ら8人に襲われました。この襲撃で2人が亡くなり、益次郎も重傷を負います。 傷口から敗血症(はっけつしょう)になり、ボードウィンらの治療を受けました。シーボルトの娘の楠本イネ(くすもといね)が看護にあたったとも伝わります。10月2日(旧暦)に大阪の大阪府医学校病院に入院し、10月27日に左足の切断手術を受けましたが、11月5日(旧暦・西暦では12月7日)の夜に亡くなりました。 享年は45または46(数え年)で、生まれた年の違いによります。遺言により、切断した足は大阪の龍海寺(りょうかいじ)に埋められ、「埋腿骨之地」の碑があります。 【墓所とゆかりの地】 墓は山口市鋳銭司にあり、国の史跡に指定されています(昭和10年・1935年)。墓の近くの長沢池(ながさわいけ)の南岸には、益次郎をまつる大村神社があります。 東京の靖国神社には合祀(ごうし)されており、明治26年(1893)に建てられた銅像が、大熊氏広(おおくまうじひろ)の作として立っています。山口市の鋳銭司(すぜんじ)には、「大村益次郎と貨幣の資料館」という名前の鋳銭司郷土館があります。
ゆかりの神社・寺・城1 件