武将戦国時代
島津豊久
しまづとよひさ
1570 〜 1600

別名・通称
豊久、島津中務大輔
生涯・逸話
島津豊久は、関ヶ原の戦いのあとの「島津の退き口」で、退却する伯父・島津義弘を逃がすために、最後まで戦った武将です。
その最期は、別の人物の話と重ねて語られることがあります。記録で確かめられる範囲で、豊久の生涯をたどります。
【生まれと家】
豊久は元亀元年(1570年)に、島津家久(いえひさ)の長男として生まれました。父の家久は、島津四兄弟の末弟です。
家久は、天正7年(1579年)に日向の佐土原城の城主となりました。薩摩藩主となった同名の島津家久(1576〜1638年)とは別人です。
島津義弘は、豊久から見て伯父(父の兄)にあたります。
【佐土原を継ぐ】
天正15年(1587年)、父の家久が41歳で亡くなりました。豊久はそのあとを継ぎ、豊臣秀吉から、父の旧領である日向の佐土原2万8000余石を認められたとされます。
【朝鮮出兵と庄内の乱】
豊久は、文禄の役に従軍し、籠城戦や晋州城(しんしゅうじょう)の攻略で活躍したとされます。この功績で、中務大輔(なかつかさたいふ)の官職を得たとも伝えられます。
関ヶ原の前年にあたる庄内の乱(しょうないのらん)でも、大将の一人として戦い、感状(かんじょう)を受けたとされます。
【関ヶ原の戦い】
慶長5年(1600年)、豊久は大坂で西軍の挙兵に出会い、やむを得ず義弘とともに西軍に加わったとされます。
義弘が率いた島津勢は、約1500人でした。ほかの大名と比べると小さな軍勢でした。
【島津の退き口】
西軍の敗北が決まると、義弘は西へ退くのではなく、敵陣の中央、徳川家康の本陣の近くを突破して、伊勢街道の方へ退いたとされます。
豊久は、はじめは先頭の部隊を率いていました。東軍が追ってくると、豊久は殿(しんがり)を務め、烏頭坂(うとうざか)の近くで、井伊直政(いいなおまさ)や松平忠吉(まつだいらただよし)の軍と戦いました。
殿の部隊が座り込んで追手を鉄砲で足止めする「捨て奸(すてがまり)」という戦い方が使われたとされます。豊久も、この殿の一人として戦ったと伝えられます。
重傷を負い、31歳(数え年)で亡くなりました。亡くなった場所には諸説があり、烏頭坂の近くとするもののほか、大垣市上石津町の島津塚の一帯で亡くなったとする説明や、自刃したと伝わる場所もあります。
【「身代わり」の話】
豊久は、義弘の身代わりとなって討死した、と紹介されることがあります。一方で、義弘の身代わりを申し出て討死したと伝わるのは、家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)です。
豊久は殿として退き口に残った人物で、盛淳とは役割が分けて書かれる資料もあります。
【義弘のその後】
義弘は生きて薩摩へ帰りました。帰り着いた兵は、約1500人のうち80余人だったとされます。
その後、島津家は約2年にわたって徳川家康と交渉し、慶長7年(1602年)に和解が成立しました。島津家は、約61万石の本領を認められたとされます。
【ゆかりの地】
烏頭坂(大垣市上石津町)には、「島津中務大輔豊久之碑」が建っています。島津塚(同町)には、豊久の墓とされる五輪塔があります。
宮崎市佐土原の天昌寺跡(てんしょうじあと)には、父の家久と豊久の墓があり、市の史跡になっています。
ゆかりの神社・寺・城1 件