武将戦国時代
島津義弘
しまづよしひろ
1535 〜 1619

別名・通称
義弘、島津兵庫頭、鬼島津、惟新公
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、少ない兵でも退かずに戦い抜く、島津家の勇猛さと結束にある。
【島津家の次男として】
天文4年(1535)、薩摩国(さつまのくに、現在の鹿児島県)の伊作城(いざくじょう)で、島津貴久(しまづたかひさ)の次男として生まれた。兄は島津義久(よしひさ)、弟に歳久(としひさ)と家久(いえひさ)がいて、島津四兄弟として九州で勢力を広げた。
【九州での戦い】
義弘は木崎原(きざきばる)の戦いで活躍し、耳川(みみかわ)の戦いでは大友氏の軍を破って、日向(ひゅうが)の国を手に入れた。天正14年(1586)の戸次川(へつぎがわ)の戦いでは、弟の家久の軍が、豊臣方の長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)や仙石秀久(せんごくひでひさ)らの軍を破っている。
【秀吉に降伏】
天正15年(1587)5月、豊臣秀吉は約20万の大軍を九州へ送った。島津軍は豊臣秀長(ひでなが)の軍に敗れ、島津家は秀吉に降伏した。
【朝鮮出兵と泗川の戦い】
義弘は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍した。慶長3年(1598)の泗川(しせん)の戦いでは、大きな武功をあげた。その武勇から「鬼島津(おにしまづ)」と呼ばれた。
【関ヶ原と島津の退き口】
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、約1,500の兵で戦った。西軍の敗北が決まると、徳川家康の本陣に向かって敵の中を突き進み、退いた。これを「島津の退き口(のきぐち)」という。撤退のとき、小さな部隊がその場に残って追ってくる東軍を食い止め、全滅すると、次の部隊が残って時間をかせいだ。薩摩へ帰り着いたのは、数十人ほどだったと伝えられる。
【晩年】
関ヶ原のあと、義弘は海路で薩摩へ戻り、桜島で謹慎した。その後、加治木(かじき)に移って静かに暮らし、元和5年(1619)7月21日、数え年で85歳で亡くなった。