武将戦国時代
榊原康政
さかきばらやすまさ
1548 〜 1606

別名・通称
榊原小平太、小平太、亀丸
生涯・逸話
榊原康政(さかきばらやすまさ)は、徳川家康(とくがわいえやす)を若いころから最後まで支えた武将です。
本多忠勝(ほんだただかつ)、井伊直政(いいなおまさ)、酒井忠次(さかいただつぐ)とともに「徳川四天王(してんのう)」と呼ばれます。
戦場での働きだけでなく、主君に堂々と物を言い、褒美を求めずに身を引いた人としても語られます。
【生い立ちと家康との出会い】
天文17年(1548)、三河国(みかわのくに、愛知県東部)の上野郷(うわのごう、現在の豊田市上郷町)で生まれました。
父は松平家の家臣・榊原長政(ながまさ)で、康政は次男です。
13歳のとき、のちの家康である松平元康(もとやす)に見出され、小姓(こしょう、主君の身近に仕える役)になったと伝わります。
その後、三河一向一揆(いっこういっき)で初陣(ういじん、初めての戦い)を飾りました。
その働きを認められ、家康の名の一字をもらって「康政」と名乗ったとされます。
やがて旗本(はたもと、主君直属の家臣)の部隊を率いる部将に取り立てられました。
【各地の戦い】
元亀元年(1570)の姉川の戦いでは、朝倉軍の側面を攻めて武功を立てました。
元亀3年(1572)の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは、敗れて退く家康のあと、味方を集めて敵陣へ突入させ、武田軍を乱したと伝えられます。
天正3年(1575)の長篠(ながしの)の戦いにも加わっています。
【秀吉を批判した檄文】
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、家康と羽柴秀吉(はしばひでよし)が向かい合いました。
このとき康政は、秀吉を非難する檄文(げきぶん、人々に呼びかける文)を書いたと伝わります。
『藩翰譜(はんかんふ)』などによれば、趣旨は次のとおりです。
秀吉は低い身分から織田信長に取り立てられたのに、その織田家に弓を引くのは不義である。
康政は自分の名を署名して配り、高札(こうさつ)にも立てたといいます。
怒った秀吉は、康政の首に十万石の懸賞をかけたとされます。
ただし、この話は他の史料では確認できず、後世の作り話ではないかとする指摘もあります。
【関東入国と館林】
天正18年(1590)の小田原征伐では、徳川軍の先手(さきて、先頭の部隊)を務めました。
小田原城の開城後は城の受け取り役を担い、北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏照(うじてる)の切腹では検死役も務めています。
同じ年、家康は関東へ移り、康政は上野国(こうずけのくに、群馬県)の館林(たてばやし)で10万石を与えられました。
文禄2年(1593)から館林城と城下町の整備を進め、城沼(じょうぬま)という沼を堀として生かしました。
城下を囲む惣構え(そうがまえ、土塁と堀)は、文禄4年(1595)に完成したと伝わります。
また、城下に善導寺(ぜんどうじ)を移して伽藍(がらん、寺の建物)を再興し、榊原家の菩提寺(ぼだいじ、先祖を供養する寺)としました。
【関ヶ原と秀忠】
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、家康の三男・徳川秀忠(ひでただ)の軍に軍監(ぐんかん、軍の目付役)として加わり、中山道を進みました。
しかし、家康からの命令を伝える使者が荒天で遅れ、秀忠軍は決戦に間に合いませんでした。
家康は秀忠に激怒しましたが、康政のとりなしで収まり、秀忠は康政に感謝したと伝えられます。
【晩年】
関ヶ原のあと、康政は秀忠のもとで老中(ろうじゅう)を務めましたが、加増はありませんでした。
その理由として、次のように伝わります。
一つは「老臣が権力を争うのは国が滅びる兆しだ」と述べ、若い世代に任せて自ら身を引いたという説です。
もう一つは、水戸への加増転封(てんぽう、領地替え)を打診されたが、関ヶ原で戦功がないとして断ったという説です。
慶長8年(1603)には、近江国(滋賀県)に在京料として5000石が加えられました。
慶長11年(1606)5月14日、館林で亡くなりました。数え年で59歳でした。
秀忠は医師や家臣を送って見舞ったとされます。
【ゆかりの地】
館林市楠町(くすのきちょう)の善導寺に、康政の墓所があります。
群馬県指定の史跡で、本堂の西にあります。
館林城跡は現在、公園として整備されています。
城沼のほとりには、ツツジの名所として知られるつつじが岡公園があります。