武将戦国時代
酒井忠次
さかいただつぐ
1527 〜 1596

別名・通称
忠次、酒井左衛門尉、小平次、小五郎、一智
生涯・逸話
酒井忠次は、徳川家康を長年支えた武将で、徳川四天王の一人とされる。家康より15歳年上で、家康の「両家老」の一人として、政治にも戦にもかかわった。
【生まれと家康との関係】
大永7年(1527)、三河国(みかわのくに、現在の愛知県東部)に、酒井忠親(ただちか)の子として生まれた。家康が今川氏の人質だった時代から仕えたとされる。家康と家臣をつなぐ役目(奏者取次、そうじゃとりつぎ)も務め、石川数正(いしかわかずまさ)と並んで「両家老」と呼ばれた。
【吉田城と東三河】
三河の統一後、吉田城(よしだじょう、現在の愛知県豊橋市)を任され、東三河の武将たちをまとめる旗頭(はたがしら、まとめ役)となった。西三河は石川氏が受け持った。
【家康の戦いで】
姉川の戦い(1570年)、三方ヶ原の戦い(1572年)、長篠の戦い(1575年)、小牧・長久手の戦い(1584年)など、家康の主な戦いに加わった。三方ヶ原の戦いのあと、家康が浜松城へ逃げ帰ったとき、太鼓を打ち鳴らして味方を励まし、「酒井の太鼓」として知られたとされる。
【長篠の戦い】
天正3年(1575)5月21日の早朝、忠次の一隊は、鳶ヶ巣山(とびがすやま)など武田方の砦を背後から攻めた。この奇襲を忠次が献策し、織田信長にほめられたとも言われる。
【えびすくい】
忠次は「えびすくい」という宴会の舞が得意だったとされる。天正14年(1586)、家康と北条氏政(ほうじょううじまさ)が対面した酒宴で披露したという話が残っている。
【隠居と最期】
天正16年(1588)、62歳で役目を退き、号を一智(いっち)として、家督(かとく、家をつぐこと)を長男の家次(いえつぐ)に譲った。慶長元年(1596)10月28日、京都で亡くなった。享年70である。墓は、京都市東山区の知恩院(ちおんいん)の塔頭(たっちゅう、本寺に付属する小さな寺院)の先求院にある。
ゆかりの神社・寺・城3 件