武将戦国時代
石川数正
いしかわかずまさ
1533 〜 1593

不明Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons
別名・通称
数正、石川伯耆守
生涯・逸話
徳川家康の人質時代から仕え、家の重臣にまでなった男が、ある日突然、家康のもとを去った。石川数正(いしかわかずまさ)の出奔(しゅっぽん)は、いまも理由がはっきりしない戦国時代の謎の一つである。
【人質時代からの家臣】
三河国(いまの愛知県)の生まれで、父の康正(やすまさ)は家康の幼いころからの家臣だった。
天文18年(1549)、家康(当時は松平竹千代)が今川氏の人質として駿府(すんぷ、いまの静岡市)に送られると、数正もこれに付き従ったという。
のちに今川氏から独立した家康のため、駿府に残されていた家康の子・信康(のぶやす)と妻の築山殿(つきやまどの)を取り戻す交渉を成功させた。織田信長と手を結ぶ清洲同盟(きよすどうめい)の下地をつくったともいわれる。
【徳川家の重臣】
永禄12年(1569)、叔父の石川家成(いえなり)のあとを継いで、西三河の武士たちを率いる旗頭(はたがしら)となった。姉川の戦いや三方ヶ原の戦いにも加わっている。
天正7年(1579)に信康が切腹させられたあとは、岡崎城の城代を任された。
天正10年(1582)の本能寺の変では、家康の伊賀越えに同行した。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも働き、講和の仲立ちにも関わったとされる。
【突然の出奔】
天正13年(1585)11月13日、数正は岡崎城を出て、羽柴(豊臣)秀吉のもとへ走った。
その理由は今もわかっていない。秀吉にくどかれたという説、秀吉と和睦すべきだと考えて家中で孤立したという説、家康の命で秀吉方に入り込んだという説などがある。
【松本城を築く】
秀吉からはまず和泉(いまの大阪府)に領地を与えられた。
天正18年(1590)の小田原攻めのあと、信濃国の松本城主となり、8万石(10万石とも)を治めた。それまで深志城(ふかしじょう)と呼ばれていた城を、数正と子の康長(やすなが)は天正19年(1591)ごろから大きく築き直していく。いまに残る松本城の天守は、この父子によって築かれたものである。
【最期】
文禄元年(1592)3月、朝鮮出兵の拠点となった肥前名護屋(なごや、いまの佐賀県唐津市)に出陣した。
亡くなったのは文禄元年とも翌年ともいわれる。
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