学者・文化人明治・大正
夏目漱石
なつめそうせき
1867 〜 1916

別名・通称
漱石、夏目金之助、愚陀仏
明治・大正の小説家(1867-1916)。
本名は夏目金之助。松山と熊本で英語を教え、ロンドンに留学したのち、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』で作家として知られた。朝日新聞社の専属作家となってからは、『三四郎』『こころ』などを新聞に連載した。
1984年に発行が始まった千円札の肖像にもなった。
生涯・逸話
夏目漱石を理解する鍵は、英語の教師から作家へと進み、近代の日本に生きる人の心の動きを、新聞小説で書き続けたことにある。
【生まれと少年期】
慶応3年1月5日(西暦1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)で、名主・夏目小兵衛直克の五男、末っ子として生まれた。本名は金之助である。
「金之助」の名は、生まれた日が庚申(こうしん)の日で、この日に生まれた子は大泥棒になるという迷信があり、厄よけとして「金」の字を入れたとされる。
生後まもなく里子に出され、1歳のときには、父の知り合いだった塩原昌之助の養子になった。9歳で塩原夫妻が離婚して夏目家に戻ったが、実父と養父の対立があり、夏目家に正式に戻ったのは21歳のときだった。
【英語の教師として】
東京帝国大学の英文科を、明治26年(1893)に卒業した。
明治28年(1895)に愛媛県尋常中学校(松山)の英語教師となり、翌年には、熊本の第五高等学校の英語教師となった。同じ年に結婚した。
松山での経験は『坊っちゃん』の、熊本の小天(おあま)温泉への旅は『草枕』の、それぞれ舞台のもとになったとされる。
【ロンドン留学】
明治33年(1900)9月に日本を出発し、ロンドンで英文学を学んだ。留学中は神経衰弱に苦しみ、帰国を命じられた。明治35年(1902)12月にロンドンを発ち、明治36年(1903)1月に帰国した。
【作家へ】
明治36年(1903)4月から、第一高等学校と東京帝国大学の講師となった。東京帝大では、小泉八雲の後任だった。
明治38年(1905)1月、雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表し、評判になって続編を書いた。神経衰弱の治療として、高浜虚子が創作をすすめたことがきっかけとされる。
明治39年(1906)には、『坊っちゃん』(4月、『ホトトギス』)と『草枕』(9月、『新小説』)を発表した。
【朝日新聞社の専属作家として】
明治40年(1907)2月、池辺三山に求められて朝日新聞社に入社し、専属作家になった。以後、新聞に小説を連載した。主な作品を、発表順に挙げる。
『虞美人草』(1907年)、『三四郎』(1908年)、『それから』(1909年)、『門』(1910年)、『彼岸過迄』(1912年)、『行人』(1912〜1913年)、『こころ』(1914年)、『道草』(1915年)、『明暗』(1916年)。『こころ』は、連載のときの題が『こゝろ』である。
明治43年(1910)8月、療養先の伊豆の修善寺(しゅぜんじ)で胃の病気を起こし、大吐血して、一時は危篤になった。
明治40年(1907)9月、牛込の早稲田南町に移り、書斎を「漱石山房」と呼んだ。ここには、毎週木曜日に弟子たちが集まった。これが「木曜会」である。弟子には、寺田寅彦、小宮豊隆、鈴木三重吉らがいた。
【「漱石」という名】
「漱石」は、明治22年(1889)、正岡子規の『七草集』に漢文で批評を書いたときに初めて使った。中国の故事「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」に由来し、負け惜しみが強く、変わり者のたとえである。子規が使っていた筆名の一つを、のちに譲り受けたという。
「愚陀仏(ぐだぶつ)」は、俳号である。
【最期】
大正5年(1916)12月9日、『明暗』を書いている途中、東京の自宅で亡くなった。満49歳だった。『明暗』は絶筆となり、未完に終わった。
墓は、雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)にある。
【千円札の肖像】
昭和59年(1984)に発行が始まった千円札の肖像になった。平成16年(2004)に、野口英世の千円札に切り替わった。
【ゆかりの地】
新宿区立漱石山房記念館(東京都新宿区早稲田南町)は、漱石が晩年を過ごした漱石山房の跡地に、平成29年(2017)9月24日に開館した。隣の漱石公園には、夏目漱石像や終焉の地碑がある。
夏目漱石誕生の地碑は、新宿区喜久井町に立つ。
熊本大学五高記念館(熊本市)は、漱石が教えた第五高等学校の本館である。前田家別邸(熊本県玉名市)は、『草枕』の旅の舞台とされる。