学者・文化人明治・大正
野口英世
のぐちひでよ
1876 〜 1928

別名・通称
英世、清作
明治・大正期の細菌学者(1876〜1928)。福島県猪苗代町(当時の三ツ和村)に生まれ、1歳半で左手に大やけどを負ったが、医師を志して20歳で医師の資格を得た。1900年に渡米し、ロックフェラー医学研究所で研究した。黄熱病の研究のためアフリカへ渡り、1928年にアクラで黄熱病にかかって亡くなった。
生涯・逸話
【どんな人物か】
野口英世(のぐちひでよ)は、明治から大正にかけて活躍した細菌学者(さいきんがくしゃ)である。
明治9年(1876)11月9日、福島県耶麻郡(やまぐん)三ツ和村(みつわむら、今の猪苗代町)の貧しい農家に生まれた。幼いころの名は清作(せいさく)で、のちに英世と改めた。
平成16年(2004)から、千円札の肖像にも使われた。
【生い立ちと左手のやけど】
1歳半のころ、囲炉裏(いろり)に落ちて左手に大やけどを負い、指がくっついてしまった。
明治25年(1892)10月、会津若松の会陽医院(かいよういいん)の院長・渡部鼎(わたなべかなえ)に左手の手術を受けた。その後は同じ医院に書生(しょせい、住み込みで学ぶ人)として住み込み、医師をめざすようになった。
坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』を読み、恩師の小林栄(こばやしさかえ)と相談して、清作から英世に名を改めた。
【医師になる】
明治29年(1896)に上京し、医術開業試験(いじゅつかいぎょうしけん、医師になるための試験)を受けた。前期は1896年10月に、後期は1897年(明治30年)10月に合格し、20歳で医師の資格を得た。
【アメリカでの研究】
明治33年(1900)12月、横浜から船で渡米した。ペンシルベニア大学のフレキスナー博士のもとで研究を始め、のちにロックフェラー医学研究所で働いた。1904年に一等助手となり、1914年に正員(せいいん)に昇進した。
明治44年(1911)には、梅毒(ばいどく)の病原体である梅毒スピロヘータの純粋培養(じゅんすいばいよう)に成功したとされる。神経梅毒の患者からの証明などでも成果を挙げ、ノーベル賞の候補に3回あげられた。
【黄熱病の研究と最期】
大正7年(1918)、エクアドルで黄熱病(おうねつびょう)の研究を始め、病原体を見つけたと発表した。しかし、この説はのちに誤りとされた。黄熱病の原因は細菌ではなくウイルスで、当時の光学顕微鏡では見ることができなかった。
昭和2年(1927)10月、黄熱病の原因を自分で確かめるため、西アフリカのアクラ(今のガーナの首都)へ向かった。
昭和3年(1928)5月21日、アクラで黄熱病にかかり、51歳で亡くなった。
【ゆかりの地】
福島県猪苗代町の野口英世記念館には、国の登録有形文化財に指定された茅葺き(かやぶき)屋根の生家がある。英世が生まれた部屋や、左手にやけどを負った囲炉裏を見学できる。生家の柱には、「志を得ざれば再び此地を踏まず」という誓いの言葉が残る。記念館には、ロックフェラー医学研究所の研究室を再現したコーナーもある。
横浜市金沢区には、長浜野口英世記念公園がある。
墓は、アメリカ・ニューヨーク郊外のウッドローン墓地にある。