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武将戦国時代

毛利元就

もうりもとなり

1497 〜 1571

武将「毛利元就」(戦国時代)

別名・通称

元就、毛利右馬頭、毛利陸奥守、松寿丸

戦国時代の武将(1497-1571)。 安芸国の小さな領主の家から、厳島の戦いなどで周防の大内氏・出雲の尼子氏らを破り、山陰・山陽10か国に及ぶ領国を築いた。 三人の子に結束を説いた書状「三子教訓状」でも知られ、「三本の矢」の逸話の元になったとされる。
生涯・逸話
毛利元就を理解する鍵は、小さな国人領主の家が、情報と調略を重ね、家族の結束を重んじることで、大きな大名へと成長したことにある。 【毛利家の次男として】 明応6年(1497)3月14日、安芸国吉田荘(現在の広島県安芸高田市)の国人(こくじん、地元の小領主)・毛利弘元(ひろもと)の次男として生まれた。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)。 文亀元年(1501)に母を、永正3年(1506)に父を亡くした。このとき10歳だった。 兄の興元(おきもと)が家を継いだが、永正13年(1516)に24歳で亡くなり、その子の幸松丸(こうまつまる)が2歳で家督を継いだ。元就は後見役となった。 大永3年(1523)、幸松丸が9歳で亡くなり、元就が毛利家の当主となった。郡山城(こおりやまじょう)に入り、本拠とした。 【吉田郡山城の戦い】 天文9年(1540)、出雲の尼子詮久(あまごあきひさ、のちの晴久)が大軍を率いて郡山城を攻めた。 元就は城にこもって守りぬき、周防の大内氏の援軍も加わって、天文10年(1541)1月に尼子軍を退けた。 尼子軍の兵は約3万とされるが、毛利側の兵力は資料によって差がある。 【厳島の戦い】 弘治元年(1555)、元就は、周防の大内氏の実権を握っていた陶晴賢(すえはるかた)と戦った。 元就は謀略によって、陶軍を厳島(いつくしま)におびき出し、暴風雨の夜に島へ上陸して奇襲をかけた。 小早川隆景や村上水軍も加わり、数で勝る陶軍を破った。晴賢は自害した。 この戦いは、日本の三大奇襲の一つに数えられることもある。 弘治3年(1557)には大内義長(よしなが)を討って大内氏を滅ぼし、永禄9年(1566)には尼子義久(よしひさ)を降伏させて尼子氏を滅ぼした。 元就の領国は、山陰・山陽の10か国にまで及んだとされる。 【三子教訓状と三本の矢】 弘治3年(1557)11月25日、元就は、嫡男の毛利隆元(たかもと)、次男の吉川元春(きっかわもとはる)、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)にあてて、14か条の書状を書いた。これが「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」である。 兄弟が力を合わせて毛利家を支えるよう説き、毛利の名を末永く守ることを求めている。 この教訓状に、矢の話は出てこない。 「三本の矢」の逸話は、後世に広まった話とされる。 原本は、山口県防府市の毛利博物館に伝わり、「毛利家文書」の一部として重要文化財に指定されている。 【子どもたち】 次男の元春は吉川家に、三男の隆景は小早川家に入って家督を継ぎ、両家の力を毛利家に取り込んだ。 嫡男の隆元は永禄6年(1563)に先に亡くなり、孫の輝元(てるもと)が11歳で家督を継いだ。元就は輝元の後見役となった。 【最期】 元亀2年(1571)6月14日、元就は75歳で亡くなった。 墓は、郡山城の山麓にある洞春寺跡(とうしゅんじあと)にある。孫の輝元が翌年、菩提寺として洞春寺を建てた。 戒名は「洞春寺殿日頼洞春大居士(とうしゅんじでんにちらいとうしゅんだいこじ)」である。 【ゆかりの地】 郡山城跡(安芸高田市吉田町)は、元就が大永3年に入って本拠とした山城である。山全体が城で、「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。 山麓には、元就の墓所(洞春寺跡)がある。 多治比猿掛城跡(たじひさるがけじょうあと)は、元就が少年期に住んだ城として、郡山城跡とともに国の史跡の名称に含まれている。 洞春寺(山口市)は、元就の菩提寺で、寺名は元就の戒名に由来する。山門と観音堂は国の重要文化財である。 毛利博物館(山口県防府市)には、三子教訓状が伝わる。