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武将幕末

近藤勇

こんどういさみ

1834 〜 1868

武将「近藤勇」(幕末)

書写者不明, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

勇、近藤昌宜、勝五郎、大久保大和

幕末の剣術家で、新選組の局長です。武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)の農家に生まれ、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の近藤周助の養子となって、江戸の道場・試衛館(しえいかん)を継ぎました。文久3年(1863年)に浪士組に加わって京都へ上り、新選組の局長として京都の取り締まりにあたり、池田屋事件で名を高めました。戊辰戦争で新政府軍に捕らえられ、慶応4年(1868年)に江戸の板橋で斬首されました。
生涯・逸話
近藤勇は、多摩の農家に生まれながら、幕府に仕える武士にまでなった人物です。その歩みは、剣術の道場から始まりました。 新選組の局長としての姿を、記録で確かめられる範囲で見ていきます。 【生まれと養子】 勇は天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の農家に、宮川久次郎の三男として生まれました。幼名は勝五郎です。 本姓は宮川、名は昌宜(まさよし)とされます。 嘉永2年(1849年)、天然理心流(てんねんりしんりゅう)3代宗家の近藤周助の養子となり、江戸の試衛館(しえいかん)で剣術を学びました。のちに宗家を継ぎます。 【浪士組での上洛】 文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛にあわせて、江戸で浪士が募集されました。勇は土方歳三(ひじかたとしぞう)らとともにこれに応じ、京都へ上ります。 試衛館には、土方のほか、沖田総司(おきたそうじ)や永倉新八(ながくらしんぱち)らが出入りしていて、のちに新選組の中心になりました。 浪士組を呼びかけた清河八郎(きよかわはちろう)は、将軍の警護とは別の狙いを持っていました。勇と土方はこれと別れて京都に残り、「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を結成します。 その後、京都守護職の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の支配下に入り、「新選組」の名を与えられました。 【局長として】 結成のころの筆頭局長は、芹沢鴨(せりざわかも)でした。芹沢とその一派の行いが組の評判を損ねたとされ、芹沢は内部で処断されます。 これ以後、勇が単独の局長となりました。 【池田屋事件】 元治元年6月5日(1864年7月8日)の朝、新選組は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕らえました。浪士の家から武器が見つかったこともあり、夜になって、隊を近藤隊と土方隊の二手に分けて京都の町を探しました。 京都三条の旅館・池田屋で、最初に踏み込んだのは、勇と沖田総司、永倉新八、藤堂平助(とうどうへいすけ)の4人とされます。のちに土方の隊も加わりました。 池田屋には、長州、土佐、肥後などの藩士が、30人ほど集まっていたとされます。死者や捕らえられた人の数は、資料によって大きく異なります。 この働きで、新選組は名を知られるようになりました。幕府から会津藩へ恩賞が出されたとも伝えられます。一方で、この事件をきっかけに長州藩が挙兵し、禁門の変(蛤御門の変)が起こりました。 【幕臣として】 慶応3年(1867年)6月、勇は見廻組(みまわりぐみ)の役職に任じられ、幕臣になりました。役職名は、与頭格(くみがしらかく)とする辞典と、頭取(とうどり)とする辞典があります。 【戊辰戦争と最期】 慶応4年(1868年)1月、新選組は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸へ戻りました。 勇は幕府から甲陽鎮撫(こうようちんぶ)を命じられ、新選組を「甲陽鎮撫隊」と改めて隊長となり、「大久保大和」と名乗ったとされます。3月には甲州勝沼で、板垣退助(いたがきたいすけ)が率いる迅衝隊(じんしょうたい)に敗れました。 その後、勇は下総国流山(千葉県流山市)に陣を置きましたが、新政府軍に捕らえられました。勇を知る者がいて、正体が分かったとされます。 勇は板橋に送られ、慶応4年4月25日(西暦では1868年5月)、板橋の刑場で斬首されました。武士の名誉である切腹は許されなかったと伝えられます。35歳(数え年)でした。首は京都の三条河原にさらされました。 【ゆかりの地】 流山市には近藤勇陣屋跡があり、勇は酒造家の長岡屋に陣屋を構えたと伝えられます。 板橋駅東口前(北区滝野川)には、勇の墓があります。明治9年(1876年)に永倉新八が建てたと伝えられ、毎年4月25日前後の日曜日には供養祭が行われます。 京都市中京区には池田屋の跡があり、石碑「池田屋騒動之址」が立っています。