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武将幕末・明治

松平容保

まつだいらかたもり

1836 〜 1893

武将「松平容保」(幕末・明治)

別名・通称

容保

幕末の会津藩主です(1836年〜1893年)。京都守護職として、新選組を配下に置いて京都を守りました。戊辰戦争では会津若松城に約1か月こもったのち降伏し、明治になってからは日光東照宮の宮司をつとめました。
生涯・逸話
幕府を守る役目を引き受けたことで、会津藩の運命を大きく変えることになった藩主です。 【生まれと養子入り】天保6年(1835年)12月29日、美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男として、江戸で生まれました。弘化3年(1846年)、会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852年)に会津藩主となりました。 【京都守護職】文久2年(1862年)閏8月、京都守護職に任命されました。京都の治安を守り、朝廷との間に立つ役目です。新選組を配下に置いたこともあり、尊王攘夷をとなえる人々からは敵として見られました。 【政変と禁門の変】文久3年(1863年)の八月十八日の政変では、会津藩が薩摩藩と手を結び、長州藩の勢力を京都から追い出しました。元治元年(1864年)7月の禁門の変では、蛤御門(はまぐりごもん)の激しい戦いで長州勢を退けました。 【戊辰戦争】明治元年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いが始まると官位を取り上げられ、会津若松へ帰りました。新政府軍に攻められて会津若松城(鶴ヶ城)に約1か月こもりましたが、9月に降伏しました。この戦いでは、白虎隊(びゃっこたい)の少年たちも命を落としています。 【戦いのあと】同じ年の12月、鳥取藩へ永預け(ながあずけ)となり、のちに和歌山藩へ移されました。明治2年(1869年)には、子の容大(かたはる)に家をつがせることが許され、斗南藩(となみはん)が立てられました。明治5年(1872年)正月、ようやく謹慎を解かれました。 【日光東照宮の宮司】明治13年(1880年)2月、日光東照宮の宮司となりました。 【最期】明治26年(1893年)12月5日に亡くなりました。59歳でした。お墓は、福島県会津若松市東山町の松平家の墓所にあります。
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