学者・文化人江戸時代
小林一茶
こばやしいっさ
1763 〜 1828

別名・通称
一茶、小林弥太郎、俳諧寺
江戸時代後期の俳人(はいじん、1763〜1828年)。信濃国(しなののくに)の柏原(かしわばら、現在の長野県信濃町)の農家に生まれ、15歳のころに江戸へ奉公に出ました。葛飾派(かつしかは)の俳諧(はいかい)を学び、各地を旅したのち、50歳で故郷に戻りました。口語や方言を交えた、率直な言葉で暮らしの喜びや悲しみを詠み、約2万句を残したとされます。作品に『父の終焉日記』『七番日記』『おらが春』などがあります。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、つらい境遇が続くなかでも、小さな命や暮らしの出来事を、やさしい言葉でまっすぐに句にしたところにあります。
【生い立ち】
小林一茶(こばやしいっさ)は、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、信濃国の柏原宿(現在の長野県信濃町)の農家に生まれました。本名は小林弥太郎(やたろう)です。3歳で生みの母を亡くし、8歳からは継母(ままはは)に育てられました。継母とはうまくいかなかったとされ、15歳のころ、江戸へ奉公に出ました。
【江戸と旅】
江戸での暮らしは、奉公をしながら俳諧に出会い、葛飾派の俳人たちに学んだとされます。25歳のころから、俳諧師として記録に名が出てきます。30歳ごろからは約7年間、西国(さいごく)を旅して俳諧の修行を重ね、『旅拾遺(たびしゅうい)』『さらば笠』などの句集を出しました。
【遺産争いと帰郷】
1801年(享和元年)に父が亡くなると、一茶は継母と異母弟との間で、遺産をめぐって長く争いました。その経過は、父の最期を記した『父の終焉日記(ちちのしゅうえんにっき)』に残されています。争いがおさまったあと、文化9年11月(1812年12月)、50歳で故郷の柏原に戻りました。帰郷したときの句として「これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺」が知られています。
【結婚と家族】
52歳のときに、菊と結婚しました。しかし、生まれた子どもたちは次々に幼くして亡くなり、菊にも先立たれました。その後、再婚しています。娘を亡くしたときの句として、「露の世は露の世ながらさりながら」が知られています。
【最期】
1827年(文政10年)閏(うるう)6月1日、柏原宿は大火にあい、一茶の母屋も焼けました。一茶は、焼け残った土蔵(どぞう)で暮らすようになりました。そして、同じ文政10年11月19日(西暦では1828年1月5日)、その土蔵の中で亡くなりました。数え年で65歳でした。辞世(じせい)の句は伝わっていません。
【作風と句】
一茶の句は、口語や方言を交え、日々の気持ちを率直に詠んだことが特徴とされます。幼いころの経験が背景にあるとされる「我と来て遊べや親のない雀」、小さな生き物に目を向けた「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」、「やせ蛙まけるな一茶これにあり」などが知られています。一茶が残した句は、約2万句にのぼるといわれます。晩年の作品『おらが春』には、「めでたさも中くらいなりおらが春」の句が収められ、ほかに『七番日記』などの日記も残っています。
【ゆかりの地】
長野県信濃町の柏原には、一茶の暮らしを伝える史跡や記念館があります。一茶が最期を迎えた土蔵は、国の史跡「小林一茶旧宅」として残っています。旧宅の近くには、弟の家(弟屋敷)が復元されています。一茶記念館には、『七番日記』『おらが春』などの資料や、愛用の品が展示されています。毎年11月19日の命日は「一茶忌(いっさき)」と呼ばれ、菩提寺(ぼだいじ)では句会が開かれます。
【没後の評価】
一茶は、松尾芭蕉(まつおばしょう)、与謝蕪村(よさぶそん)と並ぶ、江戸時代を代表する俳人のひとりに数えられています。
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