その他上古(垂仁天皇の御代)
倭姫命
やまとひめのみこと

Totoya Hokkei, Public domain, via Wikimedia Commons
別名・通称
倭比売命、倭媛命
生涯・逸話
倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする場所を探して、各地を巡ったと伝わる皇女です。
その旅の終わりに、現在の伊勢神宮の内宮(ないくう)がはじまったとされます。
【どんな人物か】
第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)です。
『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と書かれます。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は兄の景行天皇(けいこうてんのう)の子にあたり、倭姫命から見て甥(おい)になります。
【御杖代として】
崇神天皇(すじんてんのう)の代に、天照大神は宮中から笠縫邑(かさぬいむら)に移されました。
このとき、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えたと伝わります。
垂仁天皇の代になって、この役目を倭姫命が引き継ぎました。
神に仕えてその意思を伝える役目を「御杖代(みつえしろ)」といいます。
【大和から伊勢へ】
伝承では、倭姫命は天照大神を奉じて大和国(奈良県)を出発し、伊賀(三重県西部)、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県南部)、尾張(愛知県西部)を巡って、伊勢に入りました。
この道中で、神体の鏡(八咫鏡、やたのかがみ)を一時的にお祀りした場所を「元伊勢(もといせ)」といいます。
今も各地に、元伊勢を名乗る神社があります。
【伊勢神宮のはじまり】
伊勢に着いた倭姫命は、天照大神から神託(しんたく、神のお告げ)を受けたと伝わります。
『日本書紀』によると、その趣旨は次のとおりです。
伊勢の国は、常世(とこよ、海のかなたの理想の国)から波が幾重にも寄せる国で、都から離れてはいるが美しい国である。この国にいたい。
倭姫命はこれに従い、五十鈴川(いすずがわ)のほとりに社を建てました。
これが伊勢神宮の内宮(皇大神宮)のはじまりとされます。
日本書紀には、垂仁天皇25年3月の記事があり、これを創建とする説明が一般的です。
別の伝え(書紀の一書)では、垂仁天皇26年10月に、伊勢の渡遇宮(わたらいのみや)に移ったとされます。
【斎宮のはじまり】
倭姫命は、伊勢で天照大神に仕えた最初の皇女とされます。
この役割が、のちに天皇の代ごとに皇女を伊勢に送る斎宮(さいぐう)の制度につながったとされます。
斎宮の起源は、伝説の中の話です。
【日本武尊と草薙剣】
東の国の討伐に向かう日本武尊は、伊勢に立ち寄り、叔母にあたる倭姫命から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かったと伝わります。
この剣は、後の東征で日本武尊を危機から救ったとされます。
旅を続けた神聖な皇女から、次の旅人へ、神の宝が手渡された場面として知られます。
【倭姫命世記】
倭姫命の巡行の伝承を詳しく記したのが、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』です。
鎌倉時代の中ごろにまとめられたと考えられ、伊勢神道の経典「神道五部書(しんとうごぶしょ)」の一つです。
奥書(おくがき、書物の終わりの記録)は奈良時代の神護景雲2年(768)に書かれたとしますが、これは後世に仮託(かたく、名を借りること)されたもので、中世の編纂物として扱われます。
神宮に伝わる古い伝承も取り込んでいるとされます。
江戸時代の垂加神道(すいかしんとう)にも影響を与えたといわれます。
【墓所と伝わる場所】
倭姫命は、伊勢の地で亡くなったと伝えられます。
宮内庁が定めた墓はありませんが、三重県伊勢市倭町(やまとちょう)の宇治山田陵墓参考地が候補とされます。
遺跡名は尾部古墳(おべこふん、方墳)で、「尾上御陵(おのえごりょう)」の名でも呼ばれます。
昭和3年(1928)に、宮内省が陵墓参考地に定めました。
陵墓参考地は、被葬者が確定していない墓所です。
【ゆかりの地】
三重県伊勢市楠部町(くすべちょう)の倭姫宮(やまとひめのみや)は、倭姫命を祀る神社で、大正12年(1923)に創建されました。
神宮の別宮(べつぐう)の一つで、神明造(しんめいづくり)の社殿が森の中に静かに建っています。
近鉄の伊勢市駅から徒歩約15分です。
滋賀県甲賀市土山町の田村神社の由緒には、倭姫命をお祀りしているとあります。
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