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武将幕末

山南敬助

やまなみけいすけ

? 〜 1865

武将「山南敬助」(幕末)

別名・通称

山南、さんなんけいすけ

幕末の新選組の幹部です(生まれた年は説が分かれる〜1865年)。北辰一刀流の使い手で、近藤勇の試衛館の仲間とともに新選組をつくり、副長・総長をつとめました。元治2年(1865年)に隊を離れようとして連れ戻され、京都の前川邸で切腹しました。
生涯・逸話
新選組をつくった仲間でありながら、その新選組の中で最期をむかえた幹部です。 【名前と生まれ】ふつう「やまなみ」と読まれますが、本人の署名に「三南」と書いたものがあることから、「さんなん」と読んだ可能性も高いとされています。陸奥国仙台藩の出身とされますが、江戸で近藤勇に出会う前の経歴は、よくわかっていません。 【試衛館の仲間に】北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の免許皆伝の腕をもっていました。近藤勇の天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場、試衛館(しえいかん)に他流試合をいどんで敗れ、それからは試衛館の仲間と行動をともにしました。 【副長から総長へ】文久3年(1863年)、浪士組に加わって京都へ上り、壬生浪士組(みぶろうしぐみ)、のちの新選組で副長となりました。元治元年(1864年)に組織が立て直されると、総長となりました。 【隊を離れる】元治2年(1865年)2月、「江戸へ行く」と書き置きを残して姿を消しました。理由には諸説があり、屯所を西本願寺へ移すことに反対したが聞き入れられなかった、という説などがあります。 大津の宿にいたところを沖田総司に見つけられ、屯所へ連れ戻されました。 【最期】元治2年2月23日、壬生の前川邸の一室で切腹しました。介錯(かいしゃく)は、本人の望みで沖田総司がつとめたと伝えられています。 お墓は、壬生の屯所に近い光縁寺(こうえんじ)にあります。山南家と寺の家紋が同じだった縁で葬られたといわれます。