武将幕末・明治
山田顕義
やまだあきよし
1844 〜 1892

別名・通称
顕義、山田市之允
生涯・逸話
山田顕義は、軍人として戊辰戦争を戦い、のちに法律と教育に力を注いだ人物です。いまの日本大学と國學院大學は、どちらも成り立ちに山田がかかわっています。
その歩みを、軍人から司法大臣へと移っていく流れでたどります。
【生まれと松下村塾】
顕義は天保15年(1844年)10月9日、長州藩士・山田顕行の長男として、萩(現在の山口県萩市)に生まれました。通称は市之允とされます。
13歳で藩校の明倫館(めいりんかん)に入り、14歳(数え年)の安政4年(1857年)に、吉田松陰の松下村塾に学びました。松陰の門下生の中で最年少だったとされます。
【戊辰戦争】
戊辰戦争では、東征大総督の参謀を務めました。
明治2年(1869年)の箱館戦争では、五稜郭(ごりょうかく)を攻める新政府軍の参謀として加わり、4月に北海道の乙部に上陸したとされます。
【軍人として】
明治2年(1869年)に兵部大丞(ひょうぶのだいじょう)となり、明治4年(1871年)には陸軍少将に進みました。この年、岩倉使節団の理事官として、欧米にも渡っています。
明治10年(1877年)の西南戦争では旅団長として出征し、明治11年(1878年)に陸軍中将になりました。
【初代司法大臣】
明治12年(1879年)に参議兼工部卿(こうぶきょう)となり、のちに内務卿、司法卿を務めました。明治17年(1884年)には伯爵になります。
明治18年(1885年)、内閣制度ができると、第1次伊藤博文内閣の初代司法大臣になりました。その後の内閣でも司法大臣を務め、法典の整備を進めたとされます。
【日本法律学校と國學院】
日本独自の法学の研究と教育を目的とする法律学校は、宮崎道三郎(みやざきみちさぶろう)らが構想していました。山田はその計画を全面的に支援し、明治22年(1889年)10月4日に、日本法律学校が創設されます。初代校長は金子堅太郎(かねこけんたろう)です。この学校が、のちの日本大学になりました。
山田は司法大臣のまま、国学の研究機関である皇典講究所(こうてんこうきゅうしょ)の所長にもなりました。国典・国史・国法を一体で研究する教育機関を所内に設ける計画を立て、明治23年(1890年)に國學院が創設されます。國學院は、のちの國學院大學です。
【最期】
明治25年(1892年)11月11日、顕義は兵庫県の生野銀山を視察中に倒れ、亡くなりました。49歳(数え年)でした。28年ぶりに萩へ帰郷した後の、東京への帰り道だったとされます。
没日を11月14日とする辞典もあります。平成元年(1989年)の日本大学の調査団による石棺の発掘調査では、坑道の立て坑での転落死と鑑定されたと伝えられます。
【ゆかりの地】
萩市には山田顕義の誕生地があり、日本大学が建学90周年を記念して、昭和54年(1979年)に「顕義園」として整備しました。高さ2.4メートルの「山田顕義先生之像」が立っています。
ゆかりの神社・寺・城1 件