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武将戦国時代

豊臣秀吉

とよとみひでよし

1537 〜 1598

武将「豊臣秀吉」(戦国時代)

Kanō Mitsunobu (狩野 光信, 1565–1608), Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

秀吉、豊太閤、太閤、日吉丸、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊国大明神、藤吉郎

戦国時代から安土桃山時代の武将で、天下人(1537-1598)。尾張中村の身分の低い家に生まれ、織田信長に仕えて出世した。本能寺の変のあとに明智光秀を討ち、関白・太政大臣となって全国を統一した。太閤検地や刀狩で近世社会の土台を築いたが、朝鮮出兵のさなかに伏見城で没した。
生涯・逸話
豊臣秀吉は、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の出身で、父は木下弥右衛門、母はなか(のちの大政所)。生まれは天文6年(1537)とする説が有力とされ、天文5年(1536)とする説もある。幼名は日吉丸と伝えられ、初めは木下藤吉郎と名乗った。 織田信長に仕えて頭角を現し、永禄9年(1566)には濃尾国境の墨俣(すのまた)に城を築いて、美濃攻めの拠点を確保した。のちに「墨俣一夜城」として語り継がれる逸話である。天正元年(1573)、浅井氏が滅ぶと北近江三郡を与えられ、今浜を長浜と改めて居城を築いた。羽柴秀吉と名乗ったのもこの頃である。 天正10年(1582)、備中高松城を攻めていたさなかに本能寺の変が起こる。秀吉は毛利氏と和睦して軍を急ぎ京都へ返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破った。翌年には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を固めた。 天正13年(1585)に関白となり、翌天正14年(1586)12月には太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。天正18年(1590)、小田原征伐で北条氏を滅ぼし、続いて奥州を平定して全国の統一を成し遂げた。
秀吉の鎧(レプリカ)
秀吉の鎧(レプリカ)

Daderot, CC0, via Wikimedia Commons

政治の面では、全国で土地を測って年貢を定める太閤検地を進め、天正16年(1588)には刀狩令を出して百姓から武器を取り上げた。天正19年(1591)には身分統制令を出し、武士・町人・百姓の身分を固定した。これらは江戸時代へと続く社会の仕組みの土台となった。大坂城を居城とし、京都には聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いた。 晩年には文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を起こしたが、その最中の慶長3年(1598)8月18日、伏見城で62歳で没した。死後は後陽成天皇から「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」の神号を贈られ、京都の豊国社に祀られた。