武将戦国時代
徳川家康
とくがわいえやす
1543 〜 1616

別名・通称
家康、松平次郎三郎元信、松平元康、内府、神君、神君家康公、徳川大権現、東照大権現
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、「待つ」ことに徹した忍耐強さにある。
織田信長・豊臣秀吉と並ぶ天下人でありながら、家康が覇権を握ったのは、二人の死後まで雌伏(しふく)を重ねた末のことだった。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の句にたとえられる「忍耐の人」という評は、こうした生涯を象徴している。
【人質として過ごした少年時代】
天文11年(1543)、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として生まれた。
幼名は竹千代(たけちよ)。弱小大名だった松平家は、今川・織田という二大勢力の間で翻弄される。
天文16年(1547)、今川氏へ人質として送られる途中で織田方の手に渡り(経緯には異説がある)、以後2年ほど尾張国で織田氏の人質となった。天文18年(1549)、父・広忠の死去に伴う人質交換で今川方に移り、以後は駿河国の今川氏のもとで人質生活を送った。
この人質生活は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で今川義元(いまがわよしもと)が織田信長に討たれるまで、実に19歳になるまで続いた。
【独立、そして信長・秀吉との関係】
今川義元の死によって独立した家康は、まもなく織田信長と同盟を結んだ(清須同盟・きよすどうめい、1562年ごろ)。
以後、信長の天下統一事業を支える立場を取り続ける。
天正10年(1582)の本能寺の変(ほんのうじのへん)で信長が倒れると、後継の座をめぐって豊臣秀吉と対立し、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で干戈(かんか)を交えたが、後に和睦して秀吉に臣従した。
天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めのあと、家康は関東への移封を命じられ、江戸(現在の東京)を本拠と定めた。
【関ヶ原から江戸幕府の開府へ】
秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で石田三成ら西軍を破り、天下の実権を握った。
慶長8年(1603)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府を開き、慶長10年(1605)には将軍職を子の秀忠(ひでただ)に譲ったが、自らは大御所(おおごしょ)として実権を持ち続けた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)、翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を揺るぎないものとした。
元和2年(1616)、駿府(すんぷ、現在の静岡市)で75歳で没した。
【死後、神として祀られる】
家康は遺言により、遺骸をまず駿河国の久能山(くのうざん、現在の久能山東照宮)に葬らせた。
朝廷からは「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号が贈られて神格化され、没後1年にあたる元和3年(1617)には、新たに造営された日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に御霊(みたま)が遷(うつ)された。
江戸時代を通じて、家康を敬う諸大名が各地に東照宮を建立し、最盛期には全国で500社以上を数えたと伝わる。
現在も130社ほどが残り、徳川260年の太平の世を開いた「神君(しんくん)」として、今も各地で祀られている。
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