武将戦国時代
高山右近
たかやまうこん
1552 〜 1615

別名・通称
高山長房、高山重友、ジュスト、ユスト、南坊
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、キリスト教の信仰を守るために領地を手放し、のちに国外へ追放されながらも信仰を貫いた点にあります。
【生い立ちと洗礼】
天文21年(1552)、摂津国高山(せっつのくにたかやま、現在の大阪府豊能町)で、高山友照(たかやまともてる)の長男として生まれました。永禄7年(1564)ごろ、父とともに洗礼を受け、洗礼名はジュスト(ユストとも)です。名は長房(ながふさ)や重友(しげとも)などと伝わります。
【高槻城主として】
はじめ和田惟政(わだこれまさ)に仕え、天正元年(1573)に高槻城主となりました。荒木村重(あらきむらしげ)に属したのち織田信長に従い、のちに豊臣秀吉に仕えます。天正13年(1585)には明石に移されました。
【バテレン追放令】
天正15年(1587)、秀吉がバテレン追放令を出し、信仰を捨てるよう求められた右近はこれを拒んで、領地を失いました。その後、小西行長(こにしゆきなが)の保護を受け、天正16年(1588)には金沢の前田利家に迎えられて加賀(現在の石川県)で暮らしました。金沢城や高岡城の築城・改修にも関わったと伝わります。
【茶の湯】
千利休の弟子で、利休の高弟「利休七哲(りきゅうしちてつ)」の一人に数えられます。茶の号は南坊(なんぼう)、等伯(とうはく)です。
【国外追放と最期】
慶長19年(1614)、江戸幕府の禁教令により国外追放となり、長崎からマニラ(フィリピン)に渡りました。到着から約40日後、熱病のため病没したとされます。慶長20年(1615)の初め(西暦では2月初め)のことで、数え年で64歳でした。
【福者に】
2016年1月21日、ローマ教皇フランシスコが右近の列福(れっぷく)を承認しました。2017年2月7日には、大阪城ホールで列福式が開かれ、約1万人が参列しました。福者(ふくしゃ)は、カトリックで聖人に次ぐ敬意の対象とされる人です。
ゆかりの神社・寺・城2 件