武将戦国時代
小西行長
こにしゆきなが
1555 〜 1600

別名・通称
行長、弥九郎、アゴスチーニョ
生涯・逸話
小西行長は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、キリシタン大名(キリスト教を信じた大名)である。商人の家から武将に取り立てられた、異例の出世をした人物とされる。
【生まれと秀吉への仕官】
堺の豪商・小西隆佐(こにしりゅうさ)の次男として生まれた。通称は弥九郎(やくろう)で、兄に如清(じょせい)がいる。生年には諸説があり、1558年とする資料もある。はじめ宇喜多氏に仕え、のちに豊臣秀吉に仕えた。天正8年(1580)ごろから秀吉に重く用いられ、翌年には播磨国(はりまのくに)の室津(むろつ)を治めた。天正10年(1582)には小豆島(しょうどしま)の管理を任され、天正11年(1583)には舟奉行(ふなぶぎょう、船や水運を管理する役)になった。紀州征伐(きしゅうせいばつ)では水軍の長を務めた。
【肥後・宇土の領主に】
天正16年(1588)、肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の南半分を与えられ、宇土城(うとじょう、熊本県宇土市)の城主となった。北半分は加藤清正(かとうきよまさ)が治めた。石高(こくだか、領地の収穫量)は、資料により12万石から24万石までと差がある。キリスト教を信じ、洗礼名(せんれいめい)はアゴスチーニョという。
【朝鮮出兵】
文禄元年(1592)の文禄の役(ぶんろくのえき)では、一番隊の隊長として、娘婿の宗義智(そうよしとし)とともに釜山(プサン)を攻め、ソウル、平壌(ピョンヤン)へ進んだ。その後、明(みん)との講和を進めたが、慶長元年(1596)9月、大坂で秀吉が明の使節に会うと、条件の食い違いが明らかになって秀吉が怒り、講和は決裂した。慶長2年(1597)の慶長の役(けいちょうのえき)でも、ふたたび先鋒として出兵し、秀吉の死後に撤退した。この間、加藤清正とは作戦や講和の方針をめぐって対立したとされる。
【関ヶ原の戦いと最期】
慶長5年(1600)、石田三成が兵を挙げると、行長は西軍に属して戦った。関ヶ原の戦いで敗れ、近江の伊吹山(いぶきやま)の山中で捕らえられた。自害はキリスト教の教えに反するため、捕らえられる道を選んだという説がある。9月29日に大坂と堺を引き回され、10月1日、京都の六条河原(ろくじょうがわら)で石田三成らとともに処刑された。
【ゆかりの地】
宇土城は熊本県宇土市にあり、行長の領地の中心だった。岐阜県関ケ原町には「小西行長陣跡」があり、北天満山(きたてんまやま)の中腹に布陣したと推測されている。
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