天皇古墳時代
応神天皇
おうじんてんのう

別名・通称
応神、誉田別命、誉田別尊、品陀和気命、誉田天皇、胎中天皇、ホムタワケ、八幡神、八幡大神、八幡大菩薩
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、記紀(『古事記』と『日本書紀』)に描かれた天皇と、のちの世に全国へ広まった八幡神(はちまんしん)という、ふたつの顔を持っている点にあります。
【記紀が伝える応神天皇】
記紀では第15代の天皇とされ、父は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、母は神功皇后(じんぐうこうごう)です。母が朝鮮半島へ出兵していたあいだ、胎内にいたと伝えられることから、「胎中天皇(たいちゅうてんのう)」とも呼ばれます。名は『日本書紀』では誉田別尊、『古事記』では品陀和気命と書かれます。宮は大和の軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)とされます。
記紀には、在位41年、110歳で亡くなったと書かれていますが、年数はそのまま史実とは受け取れず、生年と没年は分かっていません。
【実在をめぐる見方】
実在したとすれば、4世紀末から5世紀初めごろの大王(おおきみ)だと考えられています。中国の史書『宋書』に見える倭の五王のひとり「讃(さん)」にあてる説や、応神天皇のころから新しい王朝が始まったとみる河内王朝(かわちおうちょう)説がありますが、定説はありません。
【渡来人と大陸の文化】
記紀によれば、応神天皇の時代に、百済(くだら)から阿直岐(あちき)や王仁(わに)が渡来し、王仁は『論語』と『千字文(せんじもん)』を伝えたとされます。弓月君(ゆづきのきみ)や阿知使主(あちのおみ)も渡来し、弓月君は秦氏(はたうじ)の祖と伝えられます。こうした伝承は、大陸の文化や技術が入ってきた時代を背景にしていると考えられています。
【陵と古市古墳群】
応神天皇の陵(みささぎ)とされているのは、大阪府羽曳野市(はびきのし)にある誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)です。宮内庁の名称は恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)です。墳丘の長さは約425メートルで、日本で2番目に大きい前方後円墳です(1位は仁徳天皇陵古墳)。5世紀前半ごろに造られたとされ、百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)のひとつとして、2019年に世界遺産に登録されました。
陵の南には誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)があり、応神天皇を主祭神としてまつっています。毎年9月15日には、神輿(みこし)が陵へ渡御(とぎょ)します。
【八幡神としての信仰】
八幡神は応神天皇の神霊とされ、大分県宇佐市の宇佐神宮が全国の八幡社の総本宮です。社伝では、八幡神は571年に宇佐に初めて現れ、725年に社殿が建てられたとされます。宇佐神宮では、八幡大神(応神天皇)、比売大神(ひめおおかみ)、神功皇后をまつっています。奈良時代には、東大寺の大仏の造立を助けるため、八幡神が奈良に迎えられたと伝えられています。781年には「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の号が贈られ、神と仏が結びついた信仰として広がりました。
平安時代の859年、僧の行教(ぎょうきょう)が宇佐で神託を受け、京都の男山に御神霊を迎え、翌860年に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が創建されました。清和源氏(せいわげんじ)は八幡大菩薩を氏神として厚く信仰し、各地に八幡社をまつりました。1063年に源頼義(みなもとのよりよし)が石清水の神を鎌倉にまつったのが鶴岡八幡宮の起こりで、1180年に源頼朝(みなもとのよりとも)が現在の場所に移し、鎌倉の武士の守り神として信仰されました。こうして八幡社は武士の守り神として全国に広がり、その数は4万社を超えるといわれます。
【主な神社】
宇佐神宮(大分県宇佐市)、石清水八幡宮(京都府八幡市)、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)、誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)。
ゆかりの神社・寺・城102 件