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学者・文化人幕末

緒方洪庵

おがたこうあん

1810 〜 1863

学者・文化人「緒方洪庵」(幕末)

別名・通称

洪庵、適々斎

幕末の蘭方医・蘭学者で、大坂に蘭学の塾「適塾(てきじゅく)」を開きました。備中国足守(岡山市北区)の藩士の子に生まれ、大坂・江戸・長崎で蘭学と医学を学び、天保9年(1838年)に大坂で塾を開きます。福沢諭吉(ふくざわゆきち)、大村益次郎(おおむらますじろう)、橋本左内(はしもとさない)らが学んだとされ、種痘の普及にも力を注ぎました。文久2年(1862年)に幕府に召されて江戸に移り、翌年に急逝しました。
生涯・逸話
緒方洪庵は、医者として病気に向き合いながら、全国から集まった若者に蘭学を教えた人物です。その塾「適塾」からは、幕末から明治の日本を動かす人々が出ました。 学びと医療と教育を、一つの人生の中でどうつないだのかを見ていきます。 【生まれと修学】 洪庵は文化7年(1810年)7月14日、備中国足守(現在の岡山市北区足守)に、足守藩士・佐伯惟因(さえきこれより)の三男として生まれました。本姓は佐伯、名は章(あきら)です。 文政8年(1825年)、父が大坂の留守居役になったため、洪庵も大坂へ出ます。 翌年、大坂の蘭学者・中天游(なかてんゆう)の私塾に入門し、蘭学を学びました。 その後、江戸へ出て蘭方医の坪井信道(つぼいしんどう)に学び、宇田川玄真(うだがわげんしん)にも師事しました。天保7年(1836年)には長崎へ移り、蘭学の修行を続けます。 【適塾を開く】 天保9年(1838年)、洪庵は大坂の瓦町(かわらまち)に、医院を兼ねた蘭学の塾を開きました。号の「適々斎(てきてきさい)」にちなんで「適々斎塾」と呼ばれ、のちに「適塾」の名で知られるようになります。 塾は、のちに過書町(かしょまち)へ移りました。移転の年は、1843年とする資料と1845年とする資料があります。 適塾には全国から若者が集まり、医学を志す者に限らず、蘭語を学ぶ武士も多かったといいます。姓名録に名が残るのは612人で、1000人以上とも言われます。 門下生として、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介(おおとりけいすけ)、長与専斎(ながよせんさい)、佐野常民(さのつねたみ)らの名が挙げられます。 【医師として】 嘉永2年(1849年)、洪庵は牛痘苗(ぎゅうとうびょう)の分与を受け、大坂に除痘館を設けて種痘を行ったとされます。種痘の普及に力を尽くしました。 著作や翻訳には、『病学通論』『扶氏経験遺訓』『虎狼痢治準』『扶氏医戒之略』などがあります。『病学通論』は、日本で初めての病理学の書とされます。 【江戸へ】 文久2年(1862年)、洪庵は幕府に召されて江戸へ移り、奥医師と西洋医学所の頭取(責任者)を兼ねました。このとき法眼(ほうげん)の位を授けられたとされます。 江戸に移ったあとの大坂の塾の教育は、養子の緒方拙斎が担ったと伝えられます。 【最期】 文久3年(1863年)6月10日、洪庵は江戸で喀血(かっけつ)し、急に亡くなりました。54歳(数え年)でした。江戸に移ってから、およそ10か月後のことと伝えられます。 墓は、江戸の駒込の高林寺(こうりんじ)と、大坂の龍海寺(りゅうかいじ)にあるとされます。 【ゆかりの地】 適塾の建物は、大阪市中央区北浜3丁目に残っています。国の重要文化財に指定され、塾生が寝起きした部屋などが公開されています。