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武将幕末・明治

松方正義

まつかたまさよし

1835 〜 1924

武将「松方正義」(幕末・明治)

別名・通称

金次郎、助左衛門、海東

幕末から大正にかけての政治家(1835〜1924)。薩摩藩士の家に生まれ、明治政府で長く財政を担った。大蔵卿として紙幣の整理を進める「松方財政」を行い、明治15年(1882)に日本銀行を創設。内閣総理大臣を2度務めた。
生涯・逸話
松方正義(まつかたまさよし)は、薩摩(さつま、鹿児島県)の藩士の家に生まれ、明治日本のお金の仕組みを整えた政治家です。 大蔵卿(おおくらきょう、財政を担当する大臣)として紙幣の整理を進め、日本銀行をつくりました。 内閣総理大臣も2度務めています。 【生い立ち】 天保6年(1835)2月25日、薩摩国鹿児島郡荒田村(あらたむら、現在の鹿児島市下荒田)で生まれました。 父は松方正恭(まさやす)で、正義は四男です。幼名は金次郎(きんじろう)といいます。 10歳のころ、父が叔父に貸したお金が戻らず、暮らしが苦しくなったと伝わります。 10歳で母を、13歳で父を亡くしたとされます。 弘化4年(1847)に藩校の造士館(ぞうしかん)に入り、嘉永3年(1850)には16歳で藩の勘定所(かんじょうしょ、お金を扱う役所)に勤め始めました。 文久2年(1862)、藩主の父・島津久光(しまづひさみつ)が京へ向かう際に付き従い、久光の側近になったことが出世のきっかけになりました。 【新政府での歩み】 慶応4年(1868)、長崎裁判所の参謀になりました。 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府側が敗れたあと、長崎奉行が公金およそ1万7000両を外国船で持ち出そうとしました。 正義は佐佐木高行(ささきたかゆき)と力を合わせてこれを止め、公金を返すよう求めたとされます。 続いて日田県(ひたけん、現在の大分県西部)の知事となり、大久保利通(おおくぼとしみち)の推薦で、明治3年(1870)まで務めました。 この間に別府港の築港などを進めたとされます。 明治3年(1870)に中央政府へ移り、民部大丞(みんぶのだいじょう)・租税権頭(そぜいごんのかみ)となって、大久保のもとで地租改正(ちそかいせい、税のしくみの改革)にもかかわりました。 【ヨーロッパで学ぶ】 明治10年(1877)から翌年にかけて、パリ万国博覧会の日本代表団を率いて、フランスに滞在しました。 フランスの財務大臣レオン・セイの助言を受け、金本位制(きんほんいせい、お金を金と結びつける制度)と中央銀行の必要を強く感じたとされます。 明治14年(1881)7月には「財政議」を提出し、中央銀行をつくる案を述べました。 【大蔵卿と松方財政】 明治14年(1881)10月11日、明治十四年の政変で大隈重信(おおくましげのぶ)が政府を去ると、正義は参議兼大蔵卿に就任しました。 ここから進めた財政の立て直しを「松方財政」と呼びます。 政府が出した紙幣をなくしていき、金や銀と交換できる約束の紙幣(兌換紙幣、だかんしへい)である日本銀行券に切りかえました。 タバコ税や酒造税などを増やし、予算をおさえ、官営の模範工場を民間に払い下げました。 これで物価の急な上昇(インフレ)はおさまりましたが、深刻な不景気(デフレ)にもなり、「松方デフレ」と呼ばれて世の中の不満を招きました。 【日本銀行の創設】 明治15年(1882)、日本銀行がつくられました。 明治17年(1884)10月には、今に続く4月から翌年3月までの会計年度を採用することを決めました。 明治30年(1897)には、日本は金本位制に復帰します。金本位制への移行の年は、辞典によって1896年とするものもあります。 【内閣総理大臣】 明治18年(1885)12月22日、内閣制度ができると、第1次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣で初代の大蔵大臣になりました。 明治24年(1891)5月6日、第4代の内閣総理大臣になり、大蔵大臣も兼ねました(第1次松方内閣)。 就任から6日目には大津事件(おおつじけん)が起こっています。 内閣は意見がまとまらず、議会の運営も難しくなって、明治25年(1892)8月8日に辞めました。 明治29年(1896)9月18日、第6代として再び内閣を組織しました(第2次松方内閣)。 大隈重信の進歩党と手を組んだことから、「松隈(しょうくま)内閣」とも呼ばれます。 明治31年(1898)1月12日、衆議院の解散の直後に総辞職しました。 【元老として】 明治34年(1901)には、元老(げんろう、天皇を助ける政界の長老)の会議で、日英同盟の締結に賛成しました。 翌年、同盟の締結後にアメリカ経由で欧州7か国を訪ね、イギリスではエドワード7世にも会いました。 大正6年(1917)5月から内大臣(ないだいじん、天皇のそばで助言する役)を務め、大正11年(1922)9月に公爵(こうしゃく)になりました。 同じ年、山県有朋(やまがたありとも)が亡くなると、西園寺公望(さいおんじきんもち)と並ぶ元老となりました。 【評価】 財政面の業績は、高く評価されることが多いと説明されます。 一方で、首相としての評価は、総じて厳しいとされます。 第1次内閣の選挙への対応や、第2次内閣で進歩党との連携がうまくいかなかったことなどが、理由として挙げられます。 これに対して、政党との妥協もいとわず、大きな方針を実現した「一流の政治家」だったと見る研究者もいます。 【最期】 大正13年(1924)7月2日、亡くなりました。数え年で90歳(満89歳)でした。 国葬が行われ、墓所は東京都港区の青山霊園(あおやまれいえん)にあります。 子どもは26人とされ、三男の松方幸次郎(こうじろう)は川崎造船所の社長になりました。 【ゆかりの地】 生まれた場所は、現在の鹿児島市下荒田一丁目のあたりとされます。 東京の青山霊園には、松方正義の墓所があります。