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武将戦国時代

黒田官兵衛

くろだかんべえ

1546 〜 1604

武将「黒田官兵衛」(戦国時代)

別名・通称

官兵衛、黒田孝高、黒田如水、如水、如水軒円清

戦国時代の武将・軍師、キリシタン大名(1546〜1604)。豊臣秀吉に仕え、参謀として中国攻めなどを支えた。荒木村重の謀反に際しては、有岡城に約1年にわたり幽閉されるという苦難も経験している。 関ヶ原の戦いでは、息子・長政が東軍で活躍する一方、如水自身は九州で兵を集めて戦った。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、豊臣秀吉の参謀として知られる一方で、その逸話の多くが江戸時代の書物以降に広まったものだという点にある。 天文15年(1546)、播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)で、小寺氏の家臣・黒田職隆の嫡男として生まれた。 初めは播磨の小寺氏に仕え、主君に織田信長への味方を勧める立場にあった。天正5年(1577)に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が播磨に入ると、その配下で働くようになる。 備中高松城の水攻めを秀吉に勧めたと伝わるなど、秀吉の戦を支えた参謀として知られる。 天正6年(1578)、織田家の家臣・荒木村重が信長に背くと、官兵衛は村重を説得するため有岡城(現在の兵庫県伊丹市)に向かった。しかし交渉は失敗し、城内に閉じ込められてしまう。一説には、主君・小寺政職の意向が背景にあったともいわれる。 翌天正7年(1579)に有岡城が落城した際、家臣の栗山利安によって救い出された。幽閉はおよそ1年に及んだとされる。 この間、人質として信長のもとにいた嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)について、信長が殺すよう命じたものの、竹中半兵衛が密かにかくまって命を救ったという話が伝わる。ただし、官兵衛にまつわる逸話の多くは『黒田家譜』(1688年)以降に広まったもので、一次史料で確かめるのは難しいとされる。 天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が討たれると、秀吉は毛利方と和睦して京へ引き返した(中国大返し)。官兵衛もこの和睦や引き返しの計画に関わったとされる。 「御運が開けましたな」と秀吉に声をかけたという逸話は広く知られているが、実際にあったかどうかは定かではない。官兵衛がどこまで深く関わったかについても、はっきりしない点が多い。 天正11年(1583)ごろ、高山右近の影響でキリスト教の洗礼を受け、「ドン・シメオン」の洗礼名を持つキリシタン大名としても知られる。洗礼の年は、1584年とする資料もある。 天正15年(1587)、豊前国の6郡を与えられ、中津(現在の大分県中津市)を拠点とした。 天正17年(1589)、44歳で隠居して嫡男の長政に家督を譲り、剃髪して「如水」と号したとされる。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、長政が徳川家康方の東軍として本戦に加わった。一方の如水は豊前の中津にいて、蓄えていた金銀を使って兵を集め、九州で戦った。 豊後の石垣原(現在の大分県別府市)の戦いで大友義統の軍を破り、豊前の小倉城などの西軍方の城を攻めた。筑後では久留米・柳川の城を受け取り、さらに肥後の水俣まで兵を進めたが、11月に家康の命を受けて水俣で兵を止め、豊前に引き返した。 関ヶ原が長引けば九州の兵をまとめて上方へ向かい、天下を狙うつもりだったともいわれるが、真意には諸説ある。 戦後、長政は筑前国を与えられ、石高は52万石ほどになった。慶長6年(1601)から福岡城の築城が進められ、「福岡」の地名は黒田家ゆかりの備前国福岡村にちなむとされる。 如水は慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都の伏見で59歳で亡くなった。遺言により、博多の教会堂で葬儀が営まれたと伝わる。墓所は福岡市博多区の崇福寺にあり、ほかに京都・大徳寺の塔頭・龍光院や高野山奥の院にも墓があるとされる。
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