公家南北朝時代
北畠親房
きたばたけちかふさ
1293 〜 1354

別名・通称
北畠准后、宗玄、覚空
鎌倉時代末から南北朝時代の公家(1293-1354)。
後醍醐天皇に仕え、建武政権で重んじられた。のちに南朝の中心人物として、常陸(現在の茨城県)で南朝方の戦いを支えた。
南朝の正統性を論じた歴史書『神皇正統記』の著者として知られる。
生涯・逸話
北畠親房を理解する鍵は、戦いの場に立つ指導者でありながら、南朝の考えを文章で示し、『神皇正統記』として残したことにある。
【生まれと出家】
正応6年(1293)1月に生まれた。村上源氏の流れをくむ公家の家である。血筋上の父は北畠師重だが、祖父の北畠師親の養子になって家を継いだ。
後醍醐天皇に仕え、側近の「後の三房(のちのさんぼう)」の筆頭とされた。皇子の世良親王の養育係も任された。
元徳2年(1330)、世良親王が亡くなったあと、38歳で出家した。法名は宗玄(そうげん)で、のちに覚空(かくくう)と名乗った。
【建武政権と陸奥下向】
後醍醐天皇の倒幕の計画には、加わっていなかったようだとされる。しかし建武政権では重んじられた。
義良親王(のりよしのしんのう、のちの後村上天皇)を奉じ、子の北畠顕家(あきいえ)とともに陸奥(東北地方)に下り、多賀城に入った。
顕家は、延元3年(1338)5月、堺浦(現在の大阪府)で戦死した。
【東国へ】
延元3年(1338)ごろ、親房は、結城宗広らとともに、義良親王と宗良親王を奉じて、伊勢の大湊から船で東国へ向かった。暴風にあって親王たちと離れ離れになり、親房らは常陸に上陸した。
常陸では、南朝方の小田治久を頼り、阿波崎城などを経て、小田城に入った。興国元年(1340)には、関宗祐の関城に移った。興国4年(1343)、小田城と関城は落ちた。
【神皇正統記】
常陸で戦いを続けるなかで、延元4年(1339)秋に『神皇正統記』の初稿を書いた。興国4年(1343)に修訂を終えた。初稿は小田城で書いたとする辞典が多い。修訂の場所は、関城または大宝城とされる。
神代から後村上天皇の即位までを、天皇の代ごとに記し、南朝の皇統が正統であることを論じた歴史書である。3巻にまとめた形で伝わる。
親房は、三種の神器を持つことを、皇位に欠かせない条件と考えた。そして鏡を正直、玉を慈悲、剣を知恵に結びつけ、徳目としても説いた。
書かれた目的は、はっきり決まっていない。幼い後村上天皇に帝王学を説くための教育書とする説が、最も有力とされる。東国の武士を南朝にさそうための書とする説もある。
江戸時代には、水戸の徳川光圀が高く評価した。この書は水戸学とも結びつき、のちの皇国史観にも影響を与えた。同じ時期に、官職の制度を解説した『職原鈔(しょくげんしょう)』も書かれたといわれる。
【吉野へ戻る】
小田城と関城が落ちたあと、親房は吉野に戻った。戻った年は、興国4年(1343)とする記述と、興国5年(1344)春とする記述がある。
正平3年(1348)に南朝が四條畷の戦いで敗れると、南朝は賀名生(あのう)の行宮(あんぐう、天皇の仮の住まい)に移った。
正平6年(1351)ごろ、南朝と北朝が一時的に一つになる「正平一統」が成り、親房は准后(じゅごう、皇后などに準じる待遇)となった。
【最期】
正平9年(文和3年)4月17日(西暦1354年5月10日)、賀名生(現在の奈良県五條市)で亡くなった。享年は数え年で62である。没年と没地には異説がある。
親房の死後、南朝は指導者を失い、勢いを弱めたとされる。
墓は賀名生にあるとされる。明治41年(1908)には、正一位が贈られた。
【ゆかりの地】
小田城跡(茨城県つくば市)は、親房が『神皇正統記』を書いた城として知られる。周辺約21.5ヘクタールが国の史跡に指定され、小田城跡歴史ひろばとして公開されている。
阿部野神社(大阪市阿倍野区)と霊山神社(福島県伊達市)には、顕家とともに祀られている。
賀名生(奈良県五條市)は、南朝の行宮があり、親房が亡くなった地とされる。
室生寺(奈良県宇陀市)には、親房の伝承の墓がある。