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武将南北朝時代

北畠顕家

きたばたけあきいえ

1318 〜 1338

武将「北畠顕家」(南北朝時代)

別名・通称

顕家

南北朝時代の公家・武将(1318〜1338)。北畠親房の長男で、数え年16歳で陸奥守(むつのかみ)となり、義良親王(のりよししんのう)を奉じて陸奥へ下った。足利尊氏と戦うため二度にわたって京都方面へ攻め上り、延元3年(暦応元年・1338)5月22日、和泉国石津(いずみのくにいしづ、現在の堺市)で戦死した。享年21(数え年)。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、公家の家に生まれながら、武士たちを率いて東北と畿内(きない)を行き来して戦った点にあります。 【生い立ち】 文保2年(1318)、北畠親房(きたばたけちかふさ)の長男として生まれました。父の親房は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に仕えた公家です。 【陸奥へ】 鎌倉幕府が滅んだ元弘3年(1333)、数え年16歳で陸奥守に任じられました。同じ年、後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇〈ごむらかみてんのう〉)を奉じて陸奥へ下り、多賀城(たがじょう、宮城県多賀城市)を拠点に東北の政治を進めました。この役所は、のちの研究で陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)とよばれています。のちに鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)も兼ねました。 【尊氏との戦い】 建武2年(1335)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇に背くと、顕家は義良親王とともに軍を率いて西へ向かいました。この戦いのなかで、尊氏は京都を追われて九州へ落ちています。顕家はその後、陸奥へ戻りました。奥羽の戦況が厳しくなると、国府を伊達郡の霊山(りょうぜん、福島県伊達市)へ移したと伝えられます。 【再び西へ】 延元2年(建武4年・1337)8月、顕家は再び京都をめざして出発しました。翌年1月には美濃(みの)の青野ヶ原(あおのがはら)で足利方と戦い、奈良の般若坂(はんにゃざか)でも戦いましたが、敗れました。 【最後の意見書と戦死】 戦死の約1週間前、顕家は後醍醐天皇に政治の進め方についての意見書を差し出したと伝えられます。これは顕家諫奏(けんかかんそう)とよばれ、5月15日付とされています。延元3年(暦応元年・1338)5月22日、和泉国の堺浦(さかいうら)で敗れ、石津(いしづ、現在の堺市)で、高師直(こうのもろなお)らの足利方の軍と戦って討死しました。享年は数え年で21です。戦死した場所は、資料によって石津、堺浦、阿倍野(あべの)とさまざまに書かれています。 【ゆかりの地】 大阪市阿倍野区北畠にある阿部野神社(あべのじんじゃ)には、北畠親房と顕家が祀(まつ)られています。神社は顕家が足利軍と戦った古戦場にあるとされ、明治15年(1882)に別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)に列せられました。霊山は、顕家が国府を移した地として知られています。