武将平安時代
木曽義仲
きそよしなか
1154 〜 1184

別名・通称
義仲、源義仲、朝日将軍、朝日の将軍
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】
木曽義仲を理解する鍵は、山あいの木曽で育った武将が、わずか数年で都の主となり、そしてすぐに滅んだ、その速さにある。平家を都から追い出したのは頼朝ではなく義仲だった。だが都の政治の中で孤立し、同じ源氏の手で討たれる。
【父の死と木曽での育ち】
久寿元年(1154)、源為義の子・義賢(よしかた)の次男として東国に生まれた。本名は源義仲。
翌年、父の義賢は、甥の源義平(頼朝の異母兄)に武蔵国の大蔵館(おおくらのやかた)で攻められて討ち死にする。
孤児となった義仲は、斎藤実盛(さいとうさねもり)らの計らいで、乳母の夫である中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとにかくまわれ、信濃の木曽の山中で育った。「木曽次郎」とも呼ばれる。
【挙兵と倶利伽羅峠】
治承4年(1180)9月、以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて木曽で兵をあげた。
翌養和元年(1181)には、千曲川の横田河原(よこたがわら)で平家方の越後の城氏の大軍を破る。
寿永2年(1183)5月、越中と加賀の国境にある倶利伽羅峠(砺波山)で、平維盛(たいらのこれもり)が率いる平家の大軍を打ち破った。
このとき角に松明をつけた牛の群れを敵陣に放ったという「火牛の計(かぎゅうのけい)」が軍記物に伝わるが、史実かどうかは疑わしい。
【朝日将軍】
同年7月、義仲は京に入り、平家は都を落ちていった。京で義仲は「朝日将軍」と呼ばれる。
しかし都の治安を立て直せず、後白河法皇との対立が深まる。義仲はついに法皇のいる法住寺殿(ほうじゅうじどの)を攻めた。
寿永3年(1184)には征夷大将軍に任じられたとされる(征東大将軍とする説もある)。
【粟津の最期】
頼朝は弟の範頼・義経に大軍をつけて義仲を討たせた。
寿永3年(1184)1月20日、義仲は近江国粟津(いまの滋賀県大津市)で討ち死にした。31歳だった。
最後まで義仲に従ったと伝わる女武者・巴御前(ともえごぜん)の話も、『平家物語』などで広く知られている。