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武将平安・鎌倉

源頼朝

みなもとのよりとも

1147 〜 1199

武将「源頼朝」(平安・鎌倉)

別名・通称

頼朝、鎌倉殿、佐殿、右大将

鎌倉幕府を開いた武将(1147〜1199)。源義朝(よしとも)の三男です。 平治の乱のあと伊豆に流されましたが、治承4年(1180)に兵をあげて関東の武士をまとめ、武士による政権を開きました。 建久3年(1192)には征夷大将軍に任じられています。
生涯・逸話
【流人から武家政権へ】 源頼朝を知る鍵は、伊豆に流された少年が、20年ほどのちに兵をあげ、武士による政権を開いたことです。 【熱田に生まれる】 久安(きゅうあん)3年(1147)、源義朝の三男として生まれました。 母は熱田大宮司(あつただいぐうじ)・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘で、母の実家がある熱田(今の名古屋市熱田区)で生まれたと伝えられています。 【伊豆への配流】 平治(へいじ)元年(1159)の平治の乱で父の義朝が敗れ、頼朝は捕らえられて、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されました。 【挙兵と関東の武士】 治承(じしょう)4年(1180)、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて兵をあげ、伊豆の目代・山木兼隆(やまきかねたか)を討ちました。 続く石橋山の戦いでは大庭景親(おおばかげちか)に敗れましたが、海をわたって安房(あわ、今の千葉県南部)へ逃れ、関東の武士たちを味方につけました。 富士川では平家の軍と向かい合い、戦わずに退かせています。 【平家の滅亡】 1185年、弟の源義経らの働きで、壇ノ浦の戦いで平家がほろびました。 【武家政権のしくみ】 文治(ぶんじ)元年(1185)、義経をとらえることを名目に、朝廷から守護・地頭を置くことを認められました。 建久(けんきゅう)元年(1190)には権大納言・右近衛大将となりましたが、まもなく辞めています。 建久3年(1192)、征夷大将軍に任じられました。 【その死】 正治(しょうじ)元年(1199)1月13日、53歳で亡くなりました。 落馬がきっかけになったという記録がありますが、本当の死因ははっきりしないともいわれています。