TabiShiri
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武将戦国時代

今川義元

いまがわよしもと

1519 〜 1560

武将「今川義元」(戦国時代)

Utagawa Kuniyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

芳菊丸、栴岳承芳、今川治部大輔、海道一の弓取り、天沢寺殿秀峰哲公大居士

駿河・遠江・三河の三か国を束ねた東海一の戦国大名。 寺で僧として育ちながら家督争いに勝って還俗し、武田・北条との三国同盟で背後を固め、分国法を整えて今川氏の最盛期を築いた。 永禄3年(1560年)、尾張へ攻め入った先の桶狭間で織田信長に討たれ、享年42。 幼い徳川家康を人質として駿府で養育した人物でもある。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は「僧侶として育った大名」だという一点にある。義元は最初から跡継ぎではなかった。寺で経典と漢籍を読んで育ち、その経験が後の統治のかたち——法度をつくり、京の文化を呼び、僧を軍師として使う——をそのまま決めている。 【寺で育った三男】永正16年(1519年)、駿河の守護大名・今川氏親の三男として生まれた。母は公家の中御門宣胤の娘、のちの寿桂尼である。幼名を芳菊丸といい、家督を継ぐ見込みのない子として富士郡の善得寺に入り、琴渓承舜のもとで出家した。師の没後は兄弟子の九英承菊とともに二度上洛し、建仁寺、さらに妙心寺で修行を積んでいる。この九英承菊が、のちの太原雪斎である。僧名は栴岳承芳といった。 【花倉の乱】天文5年(1536年)、当主であった同母兄の氏輝と彦五郎が同じ日に急死する。跡目をめぐって、有力家臣の福島氏が異母兄の玄広恵探を担いで挙兵した。承芳は太原雪斎・岡部親綱らに支えられ、後北条氏の後押しも受けてこれを破り、恵探は花倉城で自害した。承芳は還俗し、将軍足利義晴から偏諱を受けて義元と名乗る。十八歳の当主の誕生である。 【太原雪斎という片腕】義元の治世を語るとき、雪斎を外すことはできない。外交交渉、軍の指揮、寺社の統制まで引き受け、「軍師」という言葉が実態に最も近い働きをした。義元が臨済寺を建て、駿府を東国有数の禅と学問の場に育てられたのも雪斎あってのことだった。雪斎は弘治元年(1555年)に没している。桶狭間はその五年後である。 【河東一乱から三国同盟へ】天文6年(1537年)、義元は武田信虎の娘を妻に迎えて甲斐と手を結んだ。これに怒った北条氏綱が駿河へ攻め込み、富士川以東の河東地方を奪われる(第一次河東一乱)。義元は天文14年(1545年)、関東管領上杉憲政と結んで反攻し、武田晴信の仲介で河東を取り戻した。そして天文23年(1554年)、武田・北条と互いに婚姻を結んで甲相駿三国同盟を成立させる。背後をすべて同盟で塞いだうえで、西へ向かう構えが整った。 【三河を取り、家康を育てる】天文18年(1549年)、松平広忠の死を機に岡崎城へ家臣を入れ、松平氏を事実上その支配下に置いた。同年、織田方の安祥城を攻めて織田信広を捕らえ、人質交換で竹千代——のちの徳川家康——を駿府に迎えている。家康は十数年を駿府で過ごし、雪斎の教えを受けたと伝わる。天下を取る男が、今川の城下で育った。 【仮名目録追加】天文22年(1553年)、義元は父の定めた分国法「今川仮名目録」に追加法を加えた。そこでは、領国の秩序を保っているのは足利将軍家ではなく今川氏自身であるとして、守護使不入の特権を廃止すると宣言している。室町の守護大名から戦国大名へ、自らの立場を言葉で定義し直した条文であり、義元の統治者としての力量が最もはっきり出ている仕事である。 【桶狭間】永禄3年(1560年)5月、義元は2万余(2万5千とも伝わる)の軍勢で尾張へ侵攻した。松平元康らに大高城周辺の織田方の砦を落とさせ、本隊を進めたが、5月19日、桶狭間で織田信長の攻撃を受けて討たれた。討ち取ったのは毛利良勝と伝わり、愛刀「義元左文字」は信長の手に渡った。享年42。 この戦いには、教科書的な説明と近年の研究とで食い違いがある。ひとつは目的で、長く「上洛の途上だった」とされてきたが、道中の浅井・六角・北畠といった大名に事前の外交工作をした形跡がなく、この年のうちに上洛するつもりだったとは考えにくい。尾張の攻略そのものが目的だったとする見方が有力になっている。もうひとつは戦い方で、「豪雨に紛れた奇襲」という筋書きに対し、『信長公記』の記述からは信長が正面から攻めかかったと読めるとして、迂回奇襲説を疑う説が出ている。どちらもまだ決着していない。 【なぜ長く軽んじられたか】義元には「輿に乗った公家かぶれの愚将」という像が長くついて回った。だがこれは後世の読み物が作り上げたもので、同時代の評価はまるで違う。越前の朝倉宗滴は『朝倉宗滴話記』で義元を「国持、人つかひの上手。よき手本と申すべき人」と挙げている。検地を進め、法度を整え、商工業を興し、三国同盟で背後を固めた統治者としての実績は、戦国大名のなかでも上位に位置する。静岡市は2017年に「今川復活宣言」を出し、2019年の生誕500年に合わせて顕彰を進めた。 【墓所とゆかりの地】菩提寺は駿府の臨済寺(静岡市葵区)で、義元が建立し雪斎が住持を務めた寺である。本堂は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されており、義元の命日にあたる5月19日には法要とともに境内が特別公開される。桶狭間で首のない遺体を駿河へ運ぶ途中に一時葬られたと伝わる地が、三河の大聖寺(愛知県豊川市牛久保町)の胴塚で、嫡子の氏真が父の三回忌をこの寺で営み、位牌所として寺領を安堵している。
梧斎年英筆「今川義元 桶狭間大合戰之圖」、3枚揃錦絵
梧斎年英筆「今川義元 桶狭間大合戰之圖」、3枚揃錦絵

Toshihide Migita, Public domain, via Wikimedia Commons