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武将鎌倉時代

北条時頼

ほうじょうときより

1227 〜 1263

武将「北条時頼」(鎌倉時代)

別名・通称

時頼、最明寺入道、北条相模守時頼、道崇

鎌倉幕府の第5代執権(1227-1263)。宝治合戦で三浦氏を滅ぼして北条氏の権力を固め、引付衆を置いて裁判の公正と迅速化を図った。宋の禅僧・蘭渓道隆を招いて建長寺を開いた。出家して最明寺入道と呼ばれたのちも幕政を導き、諸国を巡って民の暮らしを見たという「鉢の木」の伝説でも知られる。
生涯・逸話
北条時頼は、安貞元年(1227)5月14日、北条時氏の子として生まれた。母は安達景盛の娘・松下禅尼(まつしたのぜんに)である。 寛元4年(1246)、兄で4代執権の経時が亡くなると、20歳で執権の座を継いだ。就任してすぐ、一族の名越光時の陰謀を退け、背後にいた前将軍の藤原頼経を京都へ送り返した(宮騒動)。翌宝治元年(1247)には、外祖父の安達景盛とともに有力御家人の三浦泰村の一族を滅ぼし(宝治合戦)、北条氏の権力を揺るぎないものにした。 政治の面では、建長元年(1249)に引付衆(ひきつけしゅう)を置いて、御家人の訴訟を公正に、すみやかに裁く仕組みを整えた。建長4年(1252)には将軍の藤原頼嗣を退け、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を新たな将軍として鎌倉に迎えた。 禅宗にも深く帰依し、宋から来日した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に招いて建長寺を建てた。建長寺は、のちに鎌倉五山の第一位に数えられる。 康元元年(1256)、病を理由に執権の職を一族の北条長時に譲り、その翌日に最明寺で出家した。法名は道崇(どうすう)で、最明寺入道とも呼ばれる。出家したあとも、幼い嫡子の時宗に代わって幕府の政治を導いた。 時頼には、出家ののちに身分を隠して諸国を巡り、民の暮らしを見て回ったという廻国伝説が残る。謡曲『鉢木(はちのき)』では、大雪の夜に上野国佐野で宿を借りた時頼を、落ちぶれた武士の佐野源左衛門常世が、大切にしていた梅・桜・松の鉢植えを焚いてもてなした。時頼はのちにその礼として、常世に所領を与えたと語られる。 弘長3年(1263)11月22日、時頼は37歳で亡くなった。