武将鎌倉時代
北条時宗
ほうじょうときむね
1251 〜 1284

別名・通称
時宗、相模太郎、正寿、道杲
鎌倉幕府の第8代執権(1251〜1284)。北条時頼の子。
18歳で執権となり、文永11年(1274)の文永の役と弘安4年(1281)の弘安の役、二度のモンゴル(元)の襲来に立ち向かいました。
禅宗をあつく信じ、宋から無学祖元を招いて鎌倉に円覚寺を開いています。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】
北条時宗を理解する鍵は、18歳で国の守りの責任を負ったことにある。執権に就いたその年、海の向こうの大帝国・元から服従を求める使者が来た。時宗はこれを退け、二度にわたる襲来に備え、立ち向かった。わずか34年の生涯は、その対応にささげられたといってよい。
【執権となる】
建長3年(1251)5月15日、5代執権・北条時頼の子として生まれた。幼名は正寿、通称は相模太郎。
7歳で元服し、将軍・宗尊親王から一字をもらって「時宗」と名乗る。
文永5年(1268)3月、18歳で第8代執権に就いた。同じ年、元(モンゴル)の使者が服属を求めてやって来たが、幕府はこれをはねつけ、守りを固めた。
文永9年(1272)の二月騒動では、謀反を企てたとして庶兄の北条時輔らを討っている。
【二度の襲来】
文永11年(1274)10月、モンゴルと高麗の兵約2万8000が900隻の船で博多湾に攻め寄せた(文永の役)。九州の武士たちが戦い、元軍は上陸した日の夜に引き揚げはじめた。そこへ大暴風雨が襲い、元軍は大きな被害を受けたとされる。
その後、幕府は博多湾の沿岸に石塁(せきるい、防塁)を築き、御家人でない者まで動員して守りを固めた。
弘安4年(1281)、元は東路軍4万と江南軍10万で再び攻め寄せた(弘安の役)。西国の武士たちの奮戦に加え、7月30日の夜から閏7月1日にかけての暴風雨で元軍は壊滅した。
この二度の暴風は、のちに「神風」と言いはやされ、日本を神の国とする考えを広めることになった。
【禅への帰依と円覚寺】
時宗は若いころから禅をあつく信じ、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や大休正念(だいきゅうしょうねん)に学んだ。
弘安2年(1279)、宋から無学祖元(むがくそげん)を招いて建長寺の住持とし、弘安5年(1282)には祖元を開山として円覚寺を開いた。円覚寺は、のちに鎌倉五山の第二位に数えられる。
【最期】
弘安7年(1284)4月4日、病のため出家して道杲(どうこう)と号し、その日のうちに亡くなった。34歳。
墓所は円覚寺の塔頭・仏日庵(ぶつにちあん)にあり、時宗の座像も伝わる。