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公家平安・鎌倉

北条政子

ほうじょうまさこ

1157 〜 1225

公家「北条政子」(平安・鎌倉)

別名・通称

政子、尼将軍、尼御台、平政子

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の正室(1157-1225)。 頼朝の死後に出家して尼となり、のちに2代将軍頼家・3代将軍実朝が相次いで世を去ると、幼い将軍の後見として幕府の実権を握り、「尼将軍」と呼ばれた。 後鳥羽上皇が兵を挙げた承久の乱では、御家人に結束を呼びかけたと伝わり、幕府の勝利を支えた。
生涯・逸話
北条政子を理解する鍵は、将軍の妻として始まった人生が、将軍が途絶えたあと、幕府そのものを支える役割へと変わっていったことにある。 【伊豆の豪族の娘として】 保元2年(1157)、伊豆国の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれたとされる。 兄に宗時(むねとき)、弟に義時(よしとき)と時房(ときふさ)がいる。 伊豆の国市には、政子の産湯に使ったと伝わる井戸が残る。 伊豆に流されていた源頼朝と結ばれたのは、治承元年(1177)ごろとされる。 父の時政は当初この結婚に反対したが、最終的に認めたと伝わる。 治承4年(1180)、頼朝が挙兵して石橋山の戦いに敗れたあと、政子は伊豆山にとどまった。 頼朝が再起したのちに、鎌倉へ移ったとされる。 【頼朝の妻として】 頼朝との間には、二人の娘と、のちの2代将軍頼家(よりいえ)、3代将軍実朝(さねとも)が生まれた。 長女の大姫(おおひめ)は建久8年(1197)に20歳で、次女は建久10年(1199)に14歳で亡くなっている。 養和2年(1182)には、頼朝が亀の前という女性を寵愛していると知った政子が怒り、牧宗親(まきむねちか)がその住まいを打ち壊したという話が伝わる。 これは「後妻打ち(うわなりうち)」と呼ばれる当時の習わしにあたるとされる。 【頼朝の死と出家】 建久10年(1199)、頼朝が急死し、頼家が家督を継いだ。 このあと政子は出家して尼となり、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれるようになった。 頼家は、比企能員(ひきよしかず)の一族が滅びた事件のあとに将軍の座を追われ、伊豆の修禅寺に幽閉されて、元久元年(1204)に亡くなった。 建保7年(1219)には、実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺された。 【尼将軍と呼ばれて】 実朝の死後、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えたいと求めたが、上皇は認めなかった。 そこで幕府は、摂関家から幼い三寅(みとら、のちの藤原頼経(ふじわらのよりつね))を迎える。 将軍がまだ幼いため、政子が事実上の鎌倉殿(かまくらどの)として政務にあたった。 この姿から、政子は俗に「尼将軍」と呼ばれる。 なお、「政子」という名は、建保6年(1218)に従三位に叙された際、父・時政の一字を取って授けられたとされる。 「北条政子」という呼び名が一般に広まったのは昭和期のことで、本人が名乗ったものではない。 【承久の乱】 承久3年(1221)、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵を挙げた。 動揺する御家人たちに対し、政子が頼朝以来の恩を説いて、上皇方を討つよう呼びかけたと伝わる。 この演説は、『吾妻鏡(あずまかがみ)』では安達景盛(あだちかげもり)が代読したとされ、『承久記』では政子自身が語りかけたとされる。 細部は記録によって異なるが、頼朝以来の恩顧を訴えて上皇方を討つよう求めた、という点は共通している。 幕府の評議では、政子は京へ攻め上る案を支持したとされる。 乱のあと、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ流された。 京都には幕府の機関として六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれた。 幕府軍を率いて上洛した北条泰時と叔父の時房が、そのまま京都に残って乱後の処理にあたったのが始まりとされる。 【晩年と最期】 貞応3年(1224)に弟の義時が亡くなると、政子は義時の子・泰時が後を継ぐことを支えた。 翌嘉禄元年(1225)7月11日、政子は亡くなった。享年は数え年で69。 戒名は「安養院殿如実妙観大禅定尼」である。 政子への評価は、時代によって大きく変わってきた。 『吾妻鏡』は政子を中国の呂后(りょこう)や神功皇后になぞらえてたたえ、僧の慈円は「女人入眼の日本国」と評した。 江戸時代には、子に先立たれ源氏が絶えたことなどを理由に、人倫の面から批判されることもあった。 近年は、『吾妻鏡』の記述に事実を曲げた部分があることが指摘され、人物像の見直しが進んでいる。 【ゆかりの地】 寿福寺(鎌倉市扇ガ谷)は、頼朝の没した翌年の正治2年(1200)に、政子の発願で建てられた寺である。開山は栄西。境内裏手のやぐらが政子の墓と伝わり、境内は国の史跡になっている。 鎌倉の安養院には、政子の木像が伝わる。 伊豆山神社(熱海市)は、石橋山の戦いのあと政子がかくまわれた地とされる。 伊豆の国市には、北条時政が文治5年(1189)に創建した願成就院(がんじょうじゅいん)がある。時政の墓があり、運慶作の諸仏は国宝である。 同じ地域に、政子の産湯の井戸と伝わる場所もある。