学者・文化人戦国時代
古田織部
ふるたおりべ
1543 〜 1615

別名・通称
織部、古田重然、織部正、織部焼の創始者
生涯・逸話
古田織部(ふるたおりべ)は、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけての武将であり、茶人です。千利休の弟子として知られ、「織部好み」と呼ばれる茶の湯のスタイルをつくりました。
【生い立ち】
美濃国(岐阜県)の出身で、父は古田重定とされます。生まれは天文13年(1544)とする辞典が多く、天文12年(1543)とする説もあります。名は重然(しげなり)で、のちに従五位下織部正(おりべのしょう)に任じられたことから、「織部」と呼ばれました。
【武将として】
織田信長、豊臣秀吉に仕え、のちに徳川家康、秀忠にも従いました。山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いなどで活躍したとされます。秀吉からは、山城国西岡(京都府)に領地を与えられました。石高は、3万5000石とする辞典が多くあります。関ヶ原の戦いでは、徳川方につきました。
【茶人として】
千利休の高弟で、「利休七哲」の一人に数えられます。利休が秀吉から蟄居を命じられた天正19年(1591)には、見送りに行ったと日本大百科全書は記します。
利休の没後は、武家の好みを取り入れた、豪放で斬新な茶の湯を広めました。ゆがんだ形の茶碗を用いたことでも知られます。慶長10年(1605)には、江戸城で将軍・徳川秀忠に茶の湯を指南しました。こうした茶風は「織部好み」と呼ばれ、茶道の織部流の祖とされます。
織部好みの茶陶(茶の湯用のやきもの)は、「織部焼」の名で今に伝わっています。
【最期】
慶長20年(1615)、大坂夏の陣のあと、豊臣方に内通した疑いをかけられ、切腹(自刃)を命じられました。6月11日とする辞典が多くあります。世界大百科事典は、嗣子の重広も同時に死罪を申し渡されたとし、原因は不明としています。
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