公家平安時代
藤原道長
ふじわらのみちなが
966 〜 1027

不明Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons
別名・通称
道長、御堂関白、藤原道長公、法成寺殿
平安時代中期の貴族(966〜1027)。藤原兼家の五男。兄たちの死のあとに内覧となり、のちに摂政・太政大臣を務めた。4人の娘を天皇や東宮の妃とし、「この世をば」の歌で知られる。日記『御堂関白記』は国宝で、世界記憶遺産に登録されている。
生涯・逸話
【どんな人物か】
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代中期の貴族である。康保3年(966)、摂政・関白を務めた藤原兼家(かねいえ)の五男として生まれた。母は時姫(ときひめ)である。
「御堂関白(みどうかんぱく)」とも呼ばれる。
【権力をにぎるまで】
父・兼家の死後、長兄の道隆(みちたか)が関白を継いだ。道隆は長徳元年(995)4月に亡くなり、次兄の道兼(みちかね)が関白を継いだが、その7日後に病で亡くなった。
残った道長は、道隆の子の伊周(これちか)と権力を争った。一条天皇(いちじょうてんのう)の母・詮子(せんし)の強い説得もあり、同年5月に内覧(ないらん、天皇に出される文書を先に見る役目)の宣旨(せんじ)を受けた。
その年に右大臣となり、翌年には左大臣となった。長和5年(1016)には後一条天皇(ごいちじょうてんのう)を即位させて摂政(せっしょう)となり、寛仁元年(1017)に摂政を子の頼通(よりみち)に譲って、太政大臣(だいじょうだいじん)になった。
【娘たちと一家の栄え】
道長は、妻の倫子(りんし)との間に生まれた4人の娘を、いずれも天皇か東宮(とうぐう、皇太子)に嫁がせた。こうして道長は、天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父)の立場を得た。
長保元年(999)、娘の彰子(しょうし)が12歳で一条天皇に入内(じゅだい)し、のちに中宮(ちゅうぐう)となった。妍子(けんし)は三条天皇(さんじょうてんのう)の、威子(いし)は後一条天皇の中宮となった。
【この世をばの歌】
寛仁2年(1018)10月16日、威子が中宮に立った日の宴で、道長は次の歌を詠んだ。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」
この歌は、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』に記録されている。満月に自分の栄えをたとえた歌として知られる。
【紫式部と『御堂関白記』】
道長は、娘の彰子に仕える女房(にょうぼう、宮中で仕える女性)として、紫式部(むらさきしきぶ)を迎えたとされる。紫式部の学問と、物語を書く力を見込んだと伝わる。
道長が書いた日記『御堂関白記』は、長徳4年(998)から治安元年(1021)までの出来事を記している。自筆本14巻と古写本12巻が国宝に指定され、2013年にはユネスコの世界記憶遺産に登録された。京都の陽明文庫(ようめいぶんこ)に伝わる。
【出家と法成寺】
寛仁3年(1019)3月に出家し、法名は行観(ぎょうかん)、のちに行覚(ぎょうかく)と称した。
出家のあとは、阿弥陀堂(あみだどう)の無量寿院(むりょうじゅいん)の造営に力を注いだ。のちに金堂なども整えられ、法成寺(ほうじょうじ)と呼ばれる寺になった。
万寿4年(1027)12月4日、数え年で62歳で亡くなった。阿弥陀堂で亡くなったと伝わる。
【ゆかりの地】
京都御苑(きょうとぎょえん、京都市上京区)の一帯には、道長の邸宅の土御門殿(つちみかどどの、土御門第)があった。娘の彰子が出産したときには、紫式部が仕えた場所でもある。
法成寺はその東側にあった寺で、現在は石碑が立つのみである。
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