学者・文化人江戸時代
近松門左衛門
ちかまつもんざえもん
1653 〜 1725

別名・通称
門左衛門、近松、杉森信盛
江戸時代前期の劇作家です。人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)と歌舞伎の脚本を数多く書き、『曾根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』などの作品で知られます。本名は杉森信盛(すぎもりのぶもり)で、越前(えちぜん、今の福井県)の武士の家に生まれ、のちに京都へ移り住みました。町人の世界を舞台にした「世話物(せわもの)」の作者として、広く知られています。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、武士の家に生まれながら芝居の世界に入り、同じ時代を生きる町人たちの暮らしと悲しみを、舞台に描いたことにあります。
【生まれと家族】
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、承応2年(1653年)に越前国(えちぜんのくに、今の福井県)に生まれました。本名は杉森信盛です。父の杉森信義(のぶよし)は、福井藩の分家にあたる吉江藩(よしえはん)に仕える武士でした。生まれた場所は、福井市とする見方と、吉江藩のあった鯖江市(さばえし)とする見方があり、ほかの土地を挙げる説もあります。父が藩を離れたため、一家は京都へ移りました。
【京都での修行と最初の作品】
京都では、公家(くげ)に仕えた経験があったとされ、一条恵観(いちじょうえかん)らの名が伝わります。1677年ごろ、浄瑠璃の語り手・宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで、作者として働き始めたとされます。貞享2年(1685年)には、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)のために『出世景清(しゅっせかげきよ)』を書きました。この作品は、古い浄瑠璃(古浄瑠璃)と新しい浄瑠璃(新浄瑠璃)を分ける、画期的な作とされています。宝永3年(1706年)には、京都から大坂に移ったとされます。
【世話物のはじまり 曾根崎心中】
元禄16年(1703年)、近松は大坂の竹本座で『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』を上演しました。この年の4月7日、大坂の露天神社(つゆのてんじんしゃ)の森で、お初と徳兵衛が命を絶つ事件があり、これを題材にした作品です。お初は堂島新地の天満屋(てんまや)の遊女、徳兵衛は平野屋の手代(てだい)でした。近松は事件から約2週間で書き上げたとも伝えられます。町人の世界を舞台に、最近起きた事件を劇にした「世話物」という分野の作品で、評判になりました。竹本座は当時、経営が苦しかったとされ、この成功を機に、近松は竹本座の座付き作者として浄瑠璃に専念しました。
【時代物の大作 国性爺合戦】
正徳5年(1715年)11月に初演された『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』は、大当たりとなり、約17か月続けて上演されたと伝えられます。この作品は、歴史上の出来事を扱う「時代物(じだいもの)」に数えられます。
【ほかの代表作】
世話物には、『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』(1711年)、『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』(1720年)、『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』(1721年)などがあります。浄瑠璃は100作を超え、時代物が80余りから90余り、世話物が24作とされます。歌舞伎の脚本も30作から40作ほど書きました。数え方によって、資料で数が異なります。
【作風の言葉】
近松は「浄瑠璃に悪人なし」という言葉を残したとされます。また、芸は事実と虚構の微妙な間にあるとする「虚実皮膜(きょじつひまく)」という考えを唱えたとされます。『曾根崎心中』のあと心中が多く起きるようになったとされ、幕府は心中物の上演を禁止しました。
【晩年】
近松は、享保9年11月22日(西暦では1725年1月6日)に亡くなりました。72歳(数え年)でした。没年を1724年とする資料もあります。
【ゆかりの地】
兵庫県尼崎市の広済寺(こうさいじ)は近松の菩提寺(ぼだいじ)とされ、境内の墓所は国の史跡です。隣には近松記念館と近松公園があります。大阪市中央区の谷町にも、法妙寺(ほうみょうじ)の跡に墓が残り、国の史跡になっています。大阪市北区の露天神社(お初天神)は、『曾根崎心中』の事件が起きた場所とされています。各所の見学の可否や時間は、事前にご確認ください。
ゆかりの神社・寺・城2 件