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公家戦国・江戸

淀殿

よどどの

1569 〜 1615

公家「淀殿」(戦国・江戸)

別名・通称

淀、淀君、茶々、菊子、豊臣秀頼の母、浅井三姉妹長女

戦国から江戸初期の女性(1567年ごろ〜1615年)。浅井長政と、織田信長の妹・お市の方の長女。豊臣秀吉の側室となり、秀頼を産んだ。秀吉の死後は秀頼を守る立場となり、大坂夏の陣で大坂城が落城した際に、秀頼とともに自害した。
生涯・逸話
淀殿(よどどの)は、戦国時代から江戸時代の初めにかけての女性で、豊臣秀吉の側室、豊臣秀頼の母です。名は茶々(ちゃちゃ)といい、浅井長政と、織田信長の妹・お市の方の長女です。 【生い立ち】 近江国の小谷(おだに)で生まれました。生年は永禄10年(1567)ごろとする辞典が多く、永禄12年(1569)とする説もあります。妹が2人おり、浅井三姉妹と呼ばれます。 天正元年(1573)、父・長政が信長と敵対して小谷城が落ち、浅井氏は滅亡しました。茶々は、母と妹2人とともに城を出ました。 天正10年(1582)、母のお市の方は、柴田勝家と再婚しました。茶々は母に従って、越前の北ノ庄城へ移ります。翌年、北ノ庄城が落城し、勝家と母は自害しました。茶々は、秀吉の保護を受けることになりました。 【秀吉の側室として】 その後、茶々は秀吉の側室となりました。1589年ごろとする辞典があります。同じ年に淀城を与えられ、「淀の女房」と呼ばれました。のちに「淀殿」とも呼ばれるようになります。 1589年には、秀吉の子・鶴松を産みましたが、鶴松は1591年に亡くなりました。文禄2年(1593)には、大坂城の二の丸で、秀頼を産みました。 【秀吉の死後】 慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、茶々は秀頼を守る立場になりました。慶長4年(1599)には、秀頼とともに大坂城の西の丸に入り、「お袋さま」と呼ばれたと伝わります。豊臣家と徳川家康の対立が深まり、慶長19年(1614)の冬の陣、翌年の夏の陣へとつながっていきました。 【最期】 慶長20年(1615)5月8日、大坂城が落城し、茶々は秀頼とともに自害しました。 【呼び名と人物像】 「淀君」という呼び名は、江戸時代になってからのもので、生前には使われなかったとされます。また、世界大百科事典は、「淀君の乱行」といわれる悪女のイメージを、江戸時代の創作としています。