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武将戦国時代

山内一豊

やまうちかずとよ

1545 〜 1605

武将「山内一豊」(戦国時代)

別名・通称

一豊、山内伊右衛門

戦国時代から江戸時代の初めにかけての武将(1545-1605)。 織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方した。戦後に土佐一国を与えられ、土佐藩の初代藩主となった。 妻の千代(見性院)が名馬を買い与えたという逸話でも知られる。
生涯・逸話
山内一豊を理解する鍵は、主君がたびたび代わり、一族が散り散りになる戦国の世から身を起こして、一国の主にまでなった点にある。 【生まれと少年期】 天文14年(1545)に、尾張国岩倉(現在の愛知県岩倉市)で、岩倉織田氏の重臣の山内盛豊(もりとよ)の子として生まれたとされる。生年は、天文15年(1546)とする辞典もある。生まれた場所についても、黒田城(現在の愛知県一宮市)とする説がある。 弘治3年(1557)に兄の十郎が黒田城で襲われて討ち死にし、永禄2年(1559)には岩倉城が落城して、父の盛豊も討ち死にまたは自害したと伝わる。このあと山内一族は離散し、一豊は各地を流浪した。 【信長・秀吉に仕える】 いくつかの主君に仕えたあと、永禄11年(1568)ごろに織田信長の配下となり、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の家臣になったと考えられている。 元亀元年(1570)9月の姉川の戦いが初陣で、天正元年(1573)8月の刀禰坂(とねざか)の戦いでは、顔に重傷を負いながら敵将を討ち取った。この功績で、近江国唐国(からくに)に400石を与えられた。 天正4年(1576)の竹生島奉加帳(ちくぶしまほうがちょう)には「山内伊右衛門」と署名しており、このころには秀吉の直臣になっていたことが確認できる。 秀吉のもとで出世を重ね、近江国長浜(現在の滋賀県長浜市)で2万石の城主となった。天正18年(1590)には遠江国の掛川城(現在の静岡県掛川市)で5万石の城主となり、検地や築城、城下町づくりで力を発揮した。 【千代と名馬の逸話】 妻の千代(のちの見性院、けんしょういん)の逸話がよく知られている。 天正9年(1581)の信長の馬揃え(うまぞろえ)のとき、一豊が高価な名馬の鏡栗毛(かがみくりげ)を買えずにいると、千代が蓄えていた黄金を差し出して買わせた。その馬が信長の目にとまり、一豊の面目が立った、という話である。黄金の額は「10両」と語られることが多い。 ただし、この話を裏付ける同時代の史料は見つかっていない。話が詳しく出てくるのは、一豊の死から約100年後にまとめられた、新井白石の『藩翰譜(はんかんぷ)』や室鳩巣(むろきゅうそう)の『鳩巣小説』などである。のちに夫婦の仲のよさを伝えるために、手が加えられた可能性も指摘されている。それでも「内助の功」の例えとして、長く語り継がれてきた。 千代の出身地は、岐阜県の郡上八幡とする説と、近江国(現在の滋賀県米原市)とする説がある。 【関ヶ原の戦い】 慶長5年(1600)、徳川家康の会津征伐に従った。留守中に石田三成らが挙兵すると、小山評定(おやまひょうじょう)で、真っ先に居城の掛川城を家康に差し出すと申し出て、東軍に味方したと伝わる。この案は同じ東軍の堀尾忠氏が考えたものを、一豊が自分の案として申し出たという話もあり、真偽には疑問も示されている。 関ヶ原の戦いの前哨戦では、西軍の織田秀信の軍勢を破った。本戦では、南宮山(なんぐうさん)の毛利軍・長宗我部軍を押さえる役目を担った。 【土佐入国】 戦いのあと、西軍についた長宗我部盛親の領地が没収され、一豊は土佐一国を与えられた。慶長6年(1601)に掛川から土佐に入り、まず長宗我部氏の旧城の浦戸城(うらどじょう)に入った。 石高は、長宗我部時代の検地では9万8000石とされていたが、一豊は入国後に調べ直し、慶長10年(1605)に20万2600石余と届け出たとされる。 長宗我部氏の旧臣のうち、半農半兵の一領具足(いちりょうぐそく)たちは、山内氏の支配になじまず、反乱を繰り返したという。浦戸城の明け渡しをめぐっては、旧臣らによる一揆も起きた(浦戸一揆)。このため山内家は、要地に一族や重臣を置いて備えた。 【高知城と城下町】 浦戸は城下町を開くには手狭だったため、一豊は大高坂山(おおたかさやま)に新しい城を築くことにした。慶長6年(1601)9月に工事が始まり、慶長8年(1603)8月に一豊が入城した。完成したのは、養子の忠義の代で、慶長16年(1611)ごろとみられる。 掛川城に似た城を築き、掛川から職人や住民も移って、城下には掛川町ができたと伝わる。 慶長8年(1603)には、従四位下・土佐守(とさのかみ)に任じられた。 【土佐藩の身分制度との関わり】 のちの土佐藩には、上士、郷士、下士といった身分の区別があった。その背景として、山内家の家臣と、長宗我部氏の旧臣との関係がよく挙げられる。 ただし、有能な旧臣は最初から上士として召し抱えられた例が多く、「旧臣はみな差別された」という見方は史実と異なるとする指摘もある。郷士は、一豊の死後の慶長18年(1613)に新田開発とともに取り立てられた慶長郷士が始まりとされ、多くは一領具足の系譜を引く。 【最期】 慶長10年9月20日(西暦1605年11月1日)、高知で病没した。61歳とされる(60歳とする辞典もある)。法名は大通院殿心峯宗伝大居士である。 大正8年(1919)には従三位が追贈された。 墓は、高知市筆山町の土佐藩主山内家墓所(とさはんしゅやまうちけぼしょ)にある。墓所は国の史跡で、最上段に初代の一豊の墓がある。京都の妙心寺大通院にも、夫妻の墓がある。 【ゆかりの地】 高知城(高知市丸ノ内)は、一豊が築いた城である。現存する天守は、享保12年(1727)の大火で焼けたあと、宝暦3年(1753)に再建された。城内には一豊の騎馬像があり、千代と馬の像も立つ。 掛川城(静岡県掛川市)は、一豊が入城して改築した城で、天守は平成6年(1994)に木造で復元された。 土佐藩主山内家墓所(高知市筆山町)は、私有地のため通常は公開されず、年に数回、特別公開される。 岩倉(愛知県岩倉市)の神明生田神社の地は、大正8年(1919)に棟札が見つかったことなどから、一豊の誕生地と認められ、碑が建てられた。 郡上八幡城(岐阜県郡上市)の城山公園には、一豊と妻の像がある。