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学者・文化人江戸時代

歌川広重

うたがわひろしげ

1797 〜 1858

学者・文化人「歌川広重」(江戸時代)

別名・通称

広重、安藤広重

江戸時代後期の浮世絵師(1797〜1858)。「東海道五十三次」「名所江戸百景」などの風景画(名所絵)で知られます。 作品は海外でも人気を集め、ゴッホが広重の絵を模写したことでも知られています。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】 歌川広重を理解する鍵は、「旅」と「名所」にある。江戸の人々が憧れた街道や名所の風景を、雨や雪、夕暮れの光とともに描き出し、版画として多くの人の手に届けた。 【火消し同心の家に生まれる】 寛政9年(1797)、江戸の八代洲河岸(やよすがし)にあった定火消(じょうびけし)屋敷の同心、安藤源右衛門の子として生まれた。本名は安藤重右衛門(じゅうえもん)、幼名は徳太郎。 文化8年(1811)ごろ、15歳で浮世絵師を志す。歌川豊国に入門を断られ、歌川豊広(とよひろ)に入門した。 翌年、師の豊広と自分の名から一字ずつとった「歌川広重」の名を与えられる。 しばらくは家の職と絵師を両立し、文政6年(1823)に家督を譲り、天保3年(1832)には同心の職も正式に譲った。 【東海道五十三次】 天保4年(1833)、東海道の宿場を描いた「東海道五十三次」を制作し、翌年から世に出した。これが評判となり、広重は風景画の名手として知られるようになる。 天保3年(1832)秋、幕府が朝廷に馬を献上する一行に加わって京へ上り、そのときの旅がもとになったという話が伝わる。ただし、実際には旅をしていないとする説もある。 【名所絵の数々】 その後も「名所江戸百景」「六十余州名所図会」など、各地の名所を描いた作品を数多く手がけた。版画や肉筆画をあわせた作品の数は、約2万点にのぼるといわれる。 【海を越えた広重】 広重の作品は海外にも渡り、ゴッホは「亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)」「大はしあたけの夕立」を油絵で模写している。 【最期】 安政5年(1858)9月6日、当時江戸で流行していたコレラにかかって亡くなった。62歳。