TabiShiri
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武将戦国時代

上杉謙信

うえすぎけんしん

1530 〜 1578

武将「上杉謙信」(戦国時代)

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別名・通称

謙信、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、虎千代(幼名)、越後の龍、軍神、毘沙門天の化身

越後(今の新潟県)の戦国大名です(1530年から1578年)。長尾景虎の名で家を継ぎ、のちに関東管領(かんとうかんれい)の上杉家の名を継いで上杉政虎・輝虎、出家して謙信と名乗りました。甲斐の武田信玄と川中島で5回戦ったことで知られ、「越後の龍」「軍神」とも呼ばれます。毘沙門天(びしゃもんてん)を熱心に信仰し、「毘」の字を旗印にしました。「敵に塩を送る」の逸話でも知られます。
生涯・逸話
【生まれと少年時代】 享禄3年(きょうろく3ねん、1530年)、越後国の守護代(しゅごだい)の長尾為景(ながおためかげ)の子として生まれました。四男とされますが、次男・三男とする説もあります。幼名は虎千代(とらちよ)で、兄に長尾晴景(はるかげ)がいます。城下の林泉寺(りんせんじ)に入り、住職の天室光育(てんしつこういく)の教えを受けたとされます。林泉寺は、謙信の祖父の長尾能景(よしかげ)が1497年に建てた寺で、謙信は7歳から14歳まで、ここで過ごしたと紹介されています。 【家督を継ぐ】 天文17年(てんぶん17ねん、1548年)、兄の晴景から家督を譲られ、19歳で越後の守護代になりました。のちに越後をまとめ、春日山城(かすがやまじょう)を居城としました。春日山城跡は、国の史跡に指定されています。 【関東管領と名前の変遷】 元服(げんぷく)のときの名は長尾景虎です。永禄4年(えいろく4ねん、1561年)、関東管領の上杉憲政(のりまさ)から職と上杉の姓を譲られ、上杉政虎(まさとら)と名乗りました。同じ年の12月には、将軍の足利義輝(あしかがよしてる)から一字を受けて、上杉輝虎(てるとら)と改めました。元亀元年(げんきがんねん、1570年)12月には、法号の謙信を名乗ります。 【川中島の戦い】 甲斐(かい)の武田信玄とは、川中島で5回戦いました(1553年、1555年、1557年、1561年、1564年)。永禄4年の第四次の戦いが最も大きかったとされ、二人が一騎打ちをしたという話も伝わります。 【毘沙門天と「毘」の旗】 武神の毘沙門天を熱心に信仰し、本陣の旗印に「毘」の字を用いました。生涯独身だったと伝わり、子はみな養子でした。この話は江戸時代になって登場したとする見方もあります。 【敵に塩を送る】 永禄11年(1568年)ごろ、今川氏真(いまがわうじざね)が北条氏と相談して、海のない甲斐への塩の輸出を止めたとされます。このとき謙信が武田信玄に塩を送って助けたという逸話が、「敵に塩を送る」という言葉の由来として語られます。この話は、後の時代に広まった義の武将の逸話の一つです。研究者の間でも見方が分かれており、実際は、謙信が塩を送ったのではなく、塩商人が武田領へ行くのを止めなかったのだろう、という見方もあります。近年は、損得を冷静に判断した戦国大名として謙信を見る研究者が多い、とも説明されます。 【最期】 天正6年(てんしょう6ねん、1578年)3月9日、遠征の準備をしているときに、春日山城内の厠(かわや)で倒れました。意識が戻らないまま、3月13日に亡くなりました。49歳でした。死因は脳溢血(のういっけつ)とする見方があります。後継者を決めていなかったため、養子の上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)の間で御館の乱(おたてのらん)が起こり、景勝が家督を継ぎました。 【墓所と祀る社寺】 春日山城内に、遺骸を安置するための建物(のちの不識院)の建設が始められました。のちに遺骸は米沢城の本丸の御堂に安置され、明治時代に、山形県米沢市の上杉家廟所に移されました。上杉家廟所は国の史跡で、中央に謙信、左右に歴代の米沢藩主が並びます。林泉寺の墓所にも、謙信公の墓があります。謙信を祭神とする神社には、米沢市の上杉神社と、新潟県上越市の春日山神社があります。春日山神社は、1901年に米沢の上杉神社から分霊されて創建されました。