TabiShiri
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武将戦国時代

上杉景勝

うえすぎかげかつ

1556 〜 1623

武将「上杉景勝」(戦国時代)

別名・通称

卯松(幼名)、喜平次(通称)、長尾顕景(初名)

戦国時代から江戸時代初めの武将(1556〜1623)。越後(新潟県)の長尾政景(ながおまさかげ)の子で、母の弟にあたる上杉謙信(うえすぎけんしん)の養子となりました。謙信の死後、御館(おたて)の乱で上杉景虎(かげとら)との家督争いに勝ち、上杉家を継ぎます。豊臣政権では五大老の一人となり、1598年に会津120万石へ移りました。関ヶ原の戦いの翌年、徳川家康のもとで出羽米沢(山形県)30万石に減らされ、初代の米沢藩主となりました。
生涯・逸話
上杉景勝の生涯は、謙信の跡を継いだ当主が、豊臣、徳川と変わっていく時代の中で、上杉家を守り続けた歩みとして見ることができます。 【生い立ちと謙信の養子】 越後国(えちごのくに・今の新潟県)の長尾政景(ながおまさかげ)の次男として生まれました。幼名は卯松(うまつ)で、のちに喜平次顕景(きへいじ あきかげ)と名乗ったとされます。生まれは弘治元年(1555)11月27日で、西暦では1555年とも1556年とも書かれます。 母は仙洞院(せんとういん)です。上杉謙信の姉で、記録の上では異母姉とされ、仙桃院(せんとういん)と書かれることもあります。つまり謙信は、景勝から見て母の弟にあたる叔父(おじ)です。 永禄7年(1564)に父の政景が亡くなったあと、景勝は実の子がいなかった謙信の養子となりました。天正3年(1575)には、長尾顕景から上杉景勝へと名を改めたとされます。 【御館の乱】 天正6年(1578)に謙信が亡くなると、跡継ぎをめぐって内乱が起こります。景勝は春日山城(かすがやまじょう)の本丸を押さえ、もう一人の養子である上杉景虎(かげとら)と争いました。景虎は北条氏康(ほうじょううじやす)の子で、景勝の姉の夫でもありました。 景虎が立てこもった屋敷の名から、この戦いは御館(おたて)の乱と呼ばれます。景勝は武田勝頼(たけだかつより)と和睦し、翌年には勝頼の妹の菊姫(きくひめ)を妻に迎えました。 景虎は天正7年(1579)に自害し、乱は天正8年(1580)に収まりました。景勝は上杉家の当主となりましたが、家の力は弱まり、新発田重家(しばたしげいえ)の反乱をおさえるのに約7年かかったとされます。 【豊臣政権のもとで】 景勝は豊臣秀吉に仕え、文禄4年(1595)には大老として政務の文書に名を連ねました。慶長2年(1597)6月以降は、いわゆる五大老の一人に数えられます。 慶長3年(1598)、秀吉の命で越後から会津(あいづ)へ移り、約120万石を治めました。このときの上杉家の記録には、120万1,200石余と記されています。 【会津征伐と関ヶ原】 慶長5年(1600)、景勝は家臣の直江兼続(なおえかねつぐ)に命じて神指城(こうざしじょう)を築かせるなど、軍備を整えていました。徳川家康は景勝に上洛(じょうらく)を求め、兼続が返書を送ります。この返書は直江状(なおえじょう)として知られています。 家康はこれを受けて景勝の討伐を決めましたが、石田三成(いしだみつなり)らが挙兵したため、討伐を中止して西へ引き返しました。景勝は出羽(でわ)の最上義光(もがみよしあき)を攻める方針に転じ、徳川軍と直接戦うことはありませんでした。 9月15日の関ヶ原の本戦で西軍が敗れたあと、景勝は12月に家康に降伏しました。 【米沢30万石へ】 慶長6年(1601)8月、景勝は会津などを取り上げられ、出羽国米沢(よねざわ・今の山形県米沢市)30万石へ減らされました。領地は出羽の置賜(おきたま)郡が18万石、陸奥(むつ)の伊達(だて)郡と信夫(しのぶ)郡が合わせて12万石でした。 景勝は初代の米沢藩主となります。家臣をなるべく減らさずに米沢へ移ったため、約6,000人の家臣団をかかえ、藩の財政は江戸時代の初めから苦しかったとされます。上杉家の政務は、重臣の直江兼続が支えました。 【最期と墓所】 元和9年(1623)3月20日、米沢城で亡くなりました。数え年で69歳でした。 米沢市の説明によると、遺骨は高野山(こうやさん)に納められ、米沢の御廟所(ごびょうしょ)には灰や衣服が埋められて五輪塔が建てられました。御廟所は歴代藩主の墓所で、国の史跡「米沢藩主上杉家墓所」として、昭和59年(1984)に指定されています。景勝の廟は、そこに並ぶ藩主の廟の始まりとなっています。