武将幕末
徳川斉昭
とくがわなりあき
1800 〜 1860

別名・通称
斉昭、烈公、紀教、景山
生涯・逸話
藩を立て直す大胆な改革で人々を驚かせ、幕府にも遠慮なくものを言った大名。徳川斉昭(とくがわなりあき)は、その強い個性ゆえに、二度にわたって幕府から処分を受けている。
【水戸藩主となる】
寛政12年(1800)、江戸・小石川の水戸藩邸で、藩主・徳川治紀(はるとし)の三男として生まれた。
文政12年(1829)、兄・斉脩(なりのぶ)の死を受けて第9代水戸藩主となった。
【天保の藩政改革】
藩主となった斉昭は、藤田東湖(ふじたとうこ)や会沢正志斎(あいざわせいしさい)らを登用して、藩の立て直しに乗り出した。
領地全体の検地をやり直し、大砲を造るための反射炉を那珂湊(なかみなと)に築き、蝦夷地(えぞち)の開拓も計画した。
水戸城の三の丸には藩校の弘道館(こうどうかん)を設け、天保13年(1842)には偕楽園(かいらくえん)を開いている。
一方で、領内の寺院を大幅に整理したことは反発を招き、失脚の一因になったともいわれる。
【二度の処分】
弘化元年(1844)、幕府から隠居と謹慎を命じられ、家督を長男の慶篤(よしあつ)に譲った。
のちに許され、嘉永6年(1853)のペリー来航後には、幕府の海防参与(かいぼうさんよ)として外国への備えに関わった。
やがて、将軍の跡継ぎを誰にするかという問題で、斉昭は七男の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推した。だが跡継ぎは紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)に決まる。
安政5年(1858)6月24日、斉昭は許しを得ずに江戸城へ登城し、天皇の許しなく日米修好通商条約に調印したことを大老・井伊直弼に問いただした。この「不時登城(ふじとじょう)」をとがめられて謹慎を命じられる。
翌安政6年(1859)8月には、安政の大獄によって、水戸で生涯謹慎する永蟄居(えいちっきょ)を言い渡された。
【最期】
万延元年(1860)8月15日、永蟄居のまま水戸で亡くなった。61歳。おくり名は烈公(れっこう)。
七男の慶喜は、のちに江戸幕府最後の将軍となる。
【ゆかりの地をたどる】
水戸市には、斉昭がつくった藩校・弘道館と、庭園の偕楽園が残る。