公家平安時代
常磐御前
ときわごぜん

別名・通称
常盤御前、常磐、常盤
生涯・逸話
【どんな人物か】
常磐御前(ときわごぜん)は、平安時代の終わりごろの女性で、源義経(みなもとのよしつね)の母として知られる。「常盤御前」とも書く。生まれた年と亡くなった年は、はっきりしていない。
九条院(くじょういん、近衛天皇の中宮)に仕える雑仕(ぞうし、雑用をする女性)だったとされる。美しい人だったと伝わる。
【義朝の側室として】
源氏の棟梁(とうりょう、かしら)だった源義朝(みなもとのよしとも)の側室(そくしつ)となり、3人の男の子を産んだ。今若(いまわか、のちの阿野全成、あのぜんじょう)、乙若(おとわか、のちの義円、ぎえん)、牛若(うしわか、のちの源義経)である。
【平治の乱のあと】
平治元年(1159)の平治の乱で、義朝は平清盛(たいらのきよもり)に敗れ、翌年に討たれた。
常磐は子どもたちを連れて大和国(やまとのくに、今の奈良県)に身を隠した。その後、捕らえられた母と子どもたちの助命を求めて、六波羅(ろくはら)に出頭したと伝わる。
【清盛との伝承】
『平治物語』などには、母子の命を救ってもらう代わりに、常磐が清盛の愛人になったと語られている。清盛との間に娘の廊の御方(ろうのおんかた)が生まれたとする辞典もある。
ただし近年は、清盛にとって幼い子たちを処刑する理由が弱かったことから、助命は常磐の美しさのおかげだけではなかったという見方が有力とされる。
【その後】
のちに公家の一条長成(いちじょうながなり)に嫁ぎ、侍従能成(じじゅうよしなり)を生んだと伝わる。
3人の子は仏門に入った。牛若は11歳ごろに鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、のちに義経となった。
常磐の晩年と没年は、はっきりしない。幸若舞曲(こうわかまいきょく)には、奥州へ向かった牛若を追う途中で盗賊に殺されたと語られるが、これは伝承の一つである。
【ゆかりの地】
京都市北区紫竹牛若町(しちくうしわかちょう)には、牛若丸誕生井(うしわかまるたんじょうのい)がある。常磐が住んでいたと伝わる場所で、義経が生まれたとされ、石標が建っている。そのすぐ横には、義経のへその緒と胎盤を埋めたと伝わる胞衣塚(えなづか)がある。