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僧侶戦国・江戸

天海大僧正

てんかいだいそうじょう

1536 〜 1643

僧侶「天海大僧正」(戦国・江戸)

別名・通称

天海、慈眼大師、南光坊天海、東叡山天海、随風

徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた天台宗の僧です(1536年ごろ〜1643年)。家康を「東照大権現」としてまつることを進め、日光山への改葬や、上野の寛永寺を開くことにかかわりました。108歳まで生きたと伝わります。
生涯・逸話
天海を理解する鍵は、「徳川三代の将軍に仕え、家康を神としてまつる形を決めた僧」という点にあります。 【生まれと修行】天文5年(1536年)ごろ、陸奥国会津(今の福島県会津美里町)で生まれたとされます。蘆名氏の一族と伝わります。11歳で出家して「随風(ずいふう)」と名乗り、比叡山延暦寺・三井寺(園城寺)・奈良の寺々などで学びました。 【関東へ】のちに武蔵国川越の喜多院(きたいん)に入りました。比叡山東塔の南光坊に住んだことから、「南光坊天海」とも呼ばれます。比叡山では探題となり、信長の焼き討ちで荒れた延暦寺の再興にもかかわりました。 【東照大権現】元和2年(1616年)に家康が亡くなると、どのような神としてまつるかをめぐって、以心崇伝(いしん すうでん)と意見が分かれました。崇伝は吉田神道にもとづく「明神」を、天海は山王一実神道(さんのういちじつしんとう)にもとづく「権現」を主張しました。 結果、家康は「東照大権現」としてまつられることになり、天海の指示で日光山に改葬されました。 【寛永寺】寛永2年(1625年)、江戸城の鬼門(北東)にあたる上野に寛永寺を開きました。山号の「東叡山」は、「東の比叡山」という意味です。上野の池(今の不忍池)を琵琶湖に、池の中の島を竹生島(ちくぶしま)に見立てました。この島には、のちに水谷勝隆(みずのや かつたか)が辯天堂を建てています。 【天海版大蔵経】寛永寺で、木の活字を使った大蔵経(仏教の経典を集めたもの)の出版を始めました。天海が亡くなったあとの慶安元年(1648年)に完成し、「天海版」と呼ばれています。 【最期】寛永20年(1643年)10月2日に亡くなりました。108歳だったと伝わりますが、生まれた年がはっきりしないため、確かな年齢はわかっていません。慶安元年(1648年)、朝廷から「慈眼大師(じげんだいし)」の名が贈られました。