天皇飛鳥時代
天智天皇
てんじてんのう
626 〜 672

別名・通称
中大兄皇子、葛城皇子、天命開別尊
生涯・逸話
天智天皇を理解する鍵は、皇太子として政治を動かした期間が長く、天皇になったのは晩年の数年間だけだったことにある。
【生まれと名前】
推古天皇34年(626)に、舒明天皇の皇子として生まれたとされる。母は皇極天皇で、のちに重祚(ちょうそ、もう一度即位すること)して斉明天皇となった。
ただし『日本書紀』の享年から生年を逆算すると、弟の天武天皇より年下になってしまうため、生年には異説がある。
諱(いみな、本名)は葛城(かづらき)である。「中大兄(なかのおおえ)」は、長男に与えられる「大兄」の称号に由来し、「2番目の大兄」を意味するとされる。
「天智天皇」という名は、奈良時代につけられた漢風の諡号(しごう、死後におくられる名)で、和風諡号は天命開別尊である。
【乙巳の変】
皇極天皇4年6月12日(西暦645年7月10日)、中大兄皇子は、中臣鎌足(なかとみのかまたり、のちの藤原鎌足)らと謀り、皇極天皇の目の前で、蘇我入鹿(そがのいるか)を討った。翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷(えみし)は自害した。これを乙巳の変(いっしのへん)という。
乙巳の変は、のちの孝徳天皇である軽皇子(かるのみこ)によるクーデターだったとする説も、近年注目されている。
【大化の改新】
孝徳天皇が即位すると、中大兄皇子は皇太子となり、改革を進めた。乙巳の変に始まるこの一連の国政改革が、大化の改新である。「大化」は、日本で最初の元号とされる。
翌年の646年に出された「改新の詔(かいしんのみことのり)」には、土地や人々を公のものとする公地公民(こうちこうみん)や、戸籍をつくって土地を貸し与える班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが書かれている。ただし、この詔の文章は『日本書紀』がまとめられるときに書き替えられたことが分かっており、詔の政策は後世の潤色(じゅんしょく、手を加えて飾ること)とみられている。それでも、この時期に政治の変革があったことは、現在では認められている。
斉明天皇の時代にも皇太子を務めた。斉明天皇4年(658)には、孝徳天皇の遺児の有間皇子が、謀反の罪で処刑された。
【白村江の戦い】
661年に斉明天皇が亡くなると、中大兄皇子は皇太子のまま政治を行った。これを称制(しょうせい)という。
天智2年(663)、朝鮮半島の白村江(はくそんこう)で、唐と新羅の連合軍に大敗した。このため、水城(みずき)を築き、烽火(のろし)や防人(さきもり)を置くなど、守りを固めた。
【近江大津宮と即位】
天智6年3月19日(西暦667年4月17日)、都を飛鳥から近江大津宮(おうみおおつのみや、現在の滋賀県大津市)に移した。天智7年1月3日(西暦668年2月20日)、ここで即位した。
弟の大海人皇子(おおあまのおうじ、のちの天武天皇)を皇太弟とした。
【庚午年籍と国のしくみ】
天智9年(670)、日本で最古の全国的な戸籍とされる庚午年籍(こうごねんじゃく)をつくった。これは公地公民制の土台になった。
冠位を19階から26階に増やした。法律の「近江令」を定めたとも伝えられるが、その存在を疑う説もある。
天智10年(671)には、大津宮で漏刻(ろうこく、水時計)を使って時を知らせた、とされる。この日が6月10日で、のちに「時の記念日」となった。
【最期と壬申の乱】
天智10年(671)、息子の大友皇子を太政大臣とした。すると大海人皇子は皇太弟を辞退して髪をそり、吉野に去った。
天智10年12月3日(西暦672年1月7日)、近江大津宮で亡くなったとされる。享年は46である。没した場所や最期の様子には、異説もある。
翌年、大海人皇子が大友皇子を破り(壬申の乱)、天武天皇として即位した。
墓は、京都市山科区の山科陵(やましなのみささぎ)である。遺跡名は御廟野古墳(ごびょうのこふん)で、上円下方(八角)の形とされる。
【百人一首の歌】
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」は、百人一首の最初の歌で、天智天皇の作とされる。農民の苦労を思いやった歌と解釈されている。
ただし、『万葉集』には、よく似た歌が詠み人知らずとして収められている。
【ゆかりの地】
近江神宮(滋賀県大津市神宮町)は、昭和15年(1940)に、皇紀2600年を記念して、大津京ゆかりの地に創建された。天智天皇を祀る。毎年6月10日には、漏刻祭が行われる。
近江大津宮錦織遺跡(大津市錦織)は、天智天皇が都とした近江大津宮の跡で、国の史跡に指定されている。内裏正殿などの遺構が発掘されている。
山科陵(京都市山科区)は、天智天皇の墓とされる。